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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第103回「その後の『新宿スイング』」

【そして文化祭へ 第三章 幕が上がった】第一回 演劇部


 神奈川県立森山高等学校の昭和五十年度文化祭の日がやってきた。十月十四日、日曜日。翌日は敬老の日で祝日。


体育館で行われる演劇部と吹奏楽部の公演スケジュールは、演劇部が午前で合唱部の次で午前十一時からの一時間、吹奏楽部は昼休みを挟んで午後一時からの軽音楽部の次で二時半から。


この日、家族、友達、知り合いなど演劇部と吹奏楽部の部員の関係者が大挙して訪れた。


◆◇


『北条政子』がフィナーレを迎え、演劇部員たちは観客の盛大な拍手を浴びている中で幕が閉じられた。


やっと終わった。客席から見てかみてに立っていた袴姿の良太は深い溜息をつきながらその場に座り込んだ。


舞台に中央に設えた高床の上では部員たちが洋子や美紀、薫子を囲んで泣いている。観客に聞こえてはいけないから声は押し殺している。真吾はその輪に入れずに少し離れたところで立ち尽くしている。郎党として様々な情報を政子にもたらした真吾の定位置だ。


良太は真吾に近付いていって肩を叩いて握手を求めた。


(やったな)声を出さずに真吾に言った。


 真吾は照れくさそうに笑い強い力で握り返した。


 照明係の部員二人が幕をかき分けて舞台に上り、泣き続ける部員たちの輪に交じり、泣き始めた。顧問の山下はそんな部員たちを温かく見つめていた。


九月十五日の創立記念日に行ったリハーサルの出来は散々だった。


素人の男子部員が足を引っ張っていた。良太は覚えたセリフを忘れないうちに吐き出そうと早口になって聞き取りにくいし、間の取り方が悪い、落ち着きがない、現代的な雰囲気過ぎるとアンケートに書かれてしまった。


平安時代末期という時代の雰囲気として、落ち着きのある口調、ゆったりしたスピードと間が大切だ。洋子や美紀からそれを徹底的に直された。


 真吾は朴訥な感じが野性的な武士に合っていたが、良太と同じく早口で、その上、真吾の場合は滑舌が悪いので聞き取りにくい。また、動きの硬さがなかなか取れない。真吾のことだから激しく反発することが予想されたが、意外にも素直に部長と副部長の指導に従った。


その他の役は演劇の経験者ということから及第点だが、平安末期の武士階級の女たちの所作がうまくできない部分を名取にしごかれた。


内容についてはおおむね好評だった。なによりも政子の存在感、女として自立していく様がリアルだと。政子を演じた薫子はリハーサルで存在感を増した。オーラさえまとい始めた。


たぶん真吾の存在が大きいと、部員全員が理解していた。


後ろの方の席で五十嵐蘭や井村元と並んで座って観ていた大野初美は、芝居が進んでいる最中、ずっとハラハラしていた。良太が無事に芝居を終えてくれることを心の中で願っていた。だから、他の役者の芝居はほとんど注意を払っていなかった。太から頼朝役でなくなったと聞いた時、内心ではすごくうれしかった。劇とはいえ、政子=薫子との恋人シーンを観なくてよくなったからだ。ある意味、幸せな女の子である。


生徒会の三人の舞台に向かって右横には、ミントの田沼蓮子と、キングドラゴンから真吾と蓮子によって救出された森本弥生が座っていた。弥生の心中は複雑だった。あの日、「弥生、迎えに来たぜ」からずっと真吾のことが忘れられなかった。でも、あの事件からそんなに経っていない頃、薫子から、真吾のことが好きだと聞いて「良かったね」と心にもない返事をしてしまった。


今日、薫子に誘われてやってきたけど、舞台の二人を見て、諦めがついた。二人の間の絆の強さがこんなに遠くからもはっきり分かる。なによりも薫子はきれいになった。今まで自分の方がまさっていると思っていたけど、完全に負けている。舞台の二人が涙で滲んできた。その時、左隣の蓮子が手を優しく擦ってくれた。(分かってるよ)というふうに。


◆◇


 開演前、生徒会の三人の二つ前の列には、臨太郎の関係者がずらりと顔を並べていた。舞台に向かって左から岸一恵、岸太、真上りん、真上誠治、臼田絹、能見丈二。


 このご一行が来る前に、一番前の席には森山高校の不良ども、言い換えれば真吾の顔見知りが何人か陣取って、大騒ぎをしていた。奇声を上げたり、指笛を吹き鳴らしたり。教師が来て注意すると、その時だけ静かになるが、すぐに騒ぎ出す。


 そこに臨太郎の関係者六名は入ってきた。一行に気付いた一人の悪童が騒ぐのをやめた。そして他の連中も腕力で黙らせ、小声で何か言うと、不良どもは誠治と絹にお辞儀をしながら体育館を出ていった。


「何、あの子たち」とりんが不思議がると、「俺たちが新宿から来たから出ていったのさ」と誠治が答えた。


「あの子、一斗缶の灰皿を持ってきてくれた子ね」。絹が微笑んだ。


「不良老人たちを見て、ああなっちゃいけない、自分たちの教育に悪いって出ていったのよ」。一恵が言った。


「相変わらずだね、かずちゃんは」。丈二が吹き出した。

 幕が下りた直後、太は「なかなか見応えがあったね。高校生の演劇じゃないみたいだな」とつぶやいた。


「あの子、説明役をやった、倉谷君て言った子、ぴったりだったね。あの時、高校生には思えないぐらい弁が立ち過ぎると思ったけど、あれが生きていたわ」と絹。


「郎党をやった木下君、あん時、俺に盛んに腕っぷしのこと聞いてたが、見方によっちゃ不器用さが昔の武士に合ってるかもな」と誠治。


 そこに五十嵐蘭が近付いてきた。


「あ、生徒会長。五十嵐蘭さんだったわね」。一恵が声を掛けた。


「はい。こんにちは。この間はごちそうさまでした」


「こんにちは。お元気?」


「元気です。生徒会の井村元君、大野初美さんです」。二人を紹介した。


「じゃ、こっちもね。うちの亭主はこないだ会ったね。岸太。私の母親、真上りん、父親、真上誠治。丈二と絹のご夫婦。有名な不良老人たちだ」


 コラッ! 叱声が飛んだ。


 それにもめげず一恵は「蘭ちゃんはこないだ、臨太郎を訪ねてうちに来たの。何か頼みがあったらしいけど、解決しちゃったみたい。この人、凄腕の生徒会長なのよ。ねっ」と言った。


◆◇


 幕を閉めたままで演劇部員たちが舞台の上の片づけを始めた。


「部長、もう少し衣装のままでいていいですよね」。侍女役の二年生が洋子に聞いた。


「だめよ、リハーサルと今日の本番の二回着ているんだから。早く脱いでクリーニングしてお借りしたところにお返ししなければ。それに今回着れなかった人が可哀そうでしょ。早く部室で着替えましょう」


 はーい、という不満げな声が挙がった。


「でも、薫子だけは特別。おばあさまと妹さんたちのところに行ってあげなさい」


 薫子は嬉しそうにうなずいて、舞台の階段を降り祖母と中学二年の妹、小学四年の弟のもとに走り寄った。そこに蓮子と弥生も近寄っていった。


「あ、蓮子さん! あの子は誰かしら?」


「あの子が『弥生、迎えに来たぜ』よ」


 そのセリフを言った当人、真吾を姿は…良太とともに消えていた。たぶん、一服しに行ったのだろう。


 薫子の舞台姿はこれが最後。定時制に移っても全日制の演劇部の部活が続けられる話を、薫子は柔らかく断った。未練を残して働くのは辛いと、部員たちに語った。

 いい役者が花開こうとしていたのに…洋子も一服したくなった。



# by toshi58asahi | 2026-03-08 17:03 | Comments(0)

第102回「その後の『新宿スイング』」

【そして文化祭へ 第二章 演劇部】第三回 逗子海岸で


吹奏楽部のジャズ講座は、お盆で八月十七日は休みだ。食堂井之上も世間が休みなので休みを取っている。


臨太郎は日曜日、店を手伝っているが、夏休み中の日曜日は講座があるので、平日になるべく店のアルバイトをしている。お盆時期は講座も学校での練習もアルバイトもないので受験勉強に集中しようと思ったら、良太から逗子海岸で泳がないかという誘いが来た。真吾も誘ったという。


十七日は朝から曇りで、今にも雨が落ちてきそうな空模様で、しかも肌寒い。


午前十時、京急逗子海岸駅で三人は待ち合わせをした。真吾は珍しく電車でやってきた。


 海岸に着いたが泳ぐ気にならない。三人はあらかじめ服の下に海水パンツを着ていたので、脱げばすぐに泳げるのだが、そうしないで海岸の沿って走る国道一三四号の石壁に寄りかかってぼそぼそ話した。良太と真吾は時たま煙草をふかし、コークの空き缶に吸い殻を落とす。「おまわりさーん、ここで高校生が煙草を吸ってますよ」と大声を出したい衝動を臨太郎は抑えていた。本当に警官が来たら、この二人がどうするか見ものだと思ったが、自分も同じ喫煙高校生に間違えられるに違いないからやめた。


◆◇


 海の家の間から見える海と海水浴客を見ながら、「バイクじゃなかったんだね」と臨太郎が言うと、「たまには休ませる」と真吾はつまらなそうに答えた。


「ジャズはどうなってる?」。良太が聞いた。


「うん、なかなかハードだよ」と教室初日の様子を話すと、「丈二さんがギターで『インプレッションズ』弾いたのかよ。それにベースとドラムスが即興で合わせたって? 見たかったな、聴きたかったな」と良太が言うと、「誠治さんが自分の縄張りを案内したのか、それは確かに示威行動だ。それにドブ板通りよりはるかにやばい街だから寄るなって? 上等だぜ」と真吾が息巻く。


 予想通りの反応に苦笑した臨太郎は、「帰りは楽器パートごとに店で解散するんだけど、今のところ、せいさんの言いつけを破る人間はいない。真吾が部員じゃなくて良かったよ」と言った。真吾は「ケッ」と言って煙草をふかした。


「そうか、丈二さんが二学期に入っても学校に来てコーチを続けてくれるのか。良かったな。今度こそ練習を覗きに行くぞ」と良太は曇り空を見上げた。


「で、今何曲ぐらいマスターした?」


「マスターできたかどうかは分からないけど、『アメリカン・パトロール』、『イン・ザ・ムード』、『ムーンライト・セレナーデ』…三曲かな」


「全部グレン・ミラーか」


「これからベニー・グッドマン、デューク・エリントン、カウント・ベイシーかな」


「そりゃ大変だ」


 ジャズに興味がない真吾が座り込んで、砂山を作り始めた。


◆◇


「『北条政子』は進んでいるかね」


「なんだ、そのジジイみたいな言い方は。進んでいるよというか大幅に内容が変わったけどね」


 頼朝がいなくなったこと、歴史物に合わないキャラクターの良太は説明者になったこと、真吾は政子に頼朝のことを知らせる郎党になったこと、そして、九月十五日の創立記念日にリハーサルと称して生徒に披露すること。


「例の生徒会長が持ち込んだ話なんだ」


 真上りんを文化祭で歌わせようと目論んだイベンターの泣き顔が臨太郎の脳裏に蘇った。


「一カ月も早く仕上げなきゃならないんじゃ大変だね。真吾は暴れた?」


真吾は「俺はどういう奴なんだ。どうせやるなら早くやった方が、いろいろ考えなくていい。今、頼朝の郎党ってどんな奴かいつも考えているんだ」と意外な返事を寄こした。


良太が「演劇部の人間もおんなじように考えて、今必死だよ。俺は説明者、といっても実際は劇を動かしていく役割だから、芝居とは違うむずかしさがあるし、真吾は朴訥な関東の武士を演じなければならない。洋子に言わせれば、真吾のキャラクターが生きる役柄だってことだけど。なあ、真吾」と言うと、「そういうむずかしいことはともかく、セリフを覚えるのが大変だ。こんなに頭を使ったことないんだぞ」と頭を抱えて見せた。


 臨太郎と良太は顔を見合わせて吹き出した。



◆◇


「衣装のことまで考えてなかったんだが、俺たち、着物に袴なんだぞ。いやあ、まいったなあ、袴だぜ。な、真吾」


 うん、と真吾の反応がおかしい。


「袴はつらいよな。まだ着てないけど」


「いや、着てみてもいいかなって、ちょっと思ってる」


「何? 袴だぞ」


 というやりとりがあったが、役なら仕方がないということに落ち着いた。


 袴は小笠原礼法で所作を教えてくれている森山高校の事務の名取が貸してくれることになった。


 真吾は「袴はかっこいいけど、所作の稽古は苦手だ。昔の人間はあんな堅苦しい動き方をしてたなんて信じられないよ。なあ、良太」と言うと、「いや、気持ちがピッと引き締まっていいぞ」と返す。


 好みは人それぞれだなあと臨太郎が考えていると、大粒の雨が落ちてきた。


 三人は近くの海の家に雨宿りと冷たい飲み物を求めて駆け出した。


 小降りになったので、三人は良太の家に行くことになった。


「ちょうどいい。今日はうるさい母親も姉貴も出掛けているんだ。父親はいてもいなくても問題ないけど、母親と一緒に親戚の法事に行った。姉貴はどこかのプールに行くとか言ってたけど、この雨じゃな」


 家に上がって、風呂場で汚れた足を洗ってから食堂に落ち着いた。


「昼飯どうしようか。即席ラーメンでも作るか」。良太が聞くと、「僕が作るよ。材料出してくれたら」と臨太郎が言った。


「出前担当だろ。大丈夫か?」と真吾がからかうと、「門前の小僧、習わぬ経を読む、かな」と答えた。真吾は面食らって黙った。


 腹が落ち着いたので二階の良太の部屋に移動した。


「ここかあ、良太の城は」と言いながら早速、良太のレコードコレクションに興味を示した。


「ほんとにジャズ、それもモダンジャズばっかりだね」


「そうなんだ。ここに来るとそればっかり。キャロルとかダウンタウンブギウギバンドとかないのかと言うんだけどさ」真吾が愚痴った。


「君たちは『スモーキンブギ』そのものだからね」。ワハハと臨太郎が笑った。


「今、誰もいないから吸えるぞ」と良太はバミューダのポケットからハイライトを出して、窓を大きく開けた。


「ここんちは吸えないから困るんだよ」と真吾もカットオフジーンズのポケットからショートホープを出した。


◆◇


「でさ、『北条政子』はどういうストーリーになるの? 説明者の良太に説明してほしい」。臨太郎が聞いた。


「電話でそんなこと言ってたな。台本に沿って説明してやるか」と言って、学生カバンから台本を取り出した。だいぶ読み込んでいるらしく、四隅がめくりあがっている。


「先に言っとくけど、頼朝と政子の話なのに頼朝は登場しない、というより、登場人物が話す話題の中心は頼朝だ。最初、俺のセリフ、いや、朗読から始まるんだ」


〈それが、いま、誰ひとり彼女を支える人もいない最悪の状態に追いこまれたとき、はじめて、足をつっぱって大地に立つことを政子は知ったのである。物語の中の女――いわゆる王朝の女性とは違う、土のにおいのする坂東女の生き方を政子がつかんだのは、まさに、この瞬間であったかもしれない〉


永井路子の『北条政子』の一節である。


〈今から八百年前もの昔、関東の片田舎で自立した女性が誕生した。そして、その女性はいろいろ迷いながらも自分が信じる道を進んでいった。現代を生きている女性は政子に恥じない生き方をしているだろうか。時は治承四年、西暦では一一八〇年、平安時代の最末期である。先に述べた「最悪の状態」とは、夫頼朝の生死が不明であることだ。関東の武士に担がれて日本の新たなリーダーとして名乗りを上げてクーデターを起こした頼朝だが、厳しい戦いを強いられ、夫を待つ政子も窮地に立っている〉」


 息を詰めて聞いていたのを自覚した臨太郎は、酸素不足を深呼吸で補った。


◆◇


「日本史の授業で聞いたことがあると思うから、端折って説明するよ」


 源頼朝は鎌倉幕府を打ち立てて武士の世の中を誕生させた人だ。平治の乱(平治元年十二月九日、西暦一一六〇年一月十九日)の時、頼朝は父の源義朝とともに、平清盛を相手に戦って敗れた。父親は殺されたが、頼朝は清盛の継母の必死の命乞いにより一命を取り留めた。が、反体制的な政治犯として、流人として伊豆国の蛭ケ小島に閉じ込められてきた。


 が、平家に対する謀反の可能性がなければ、比較的行動は自由だった。都の貴人の常として女好きである。土地の女たちと浮名を流した。その中の一人が政子だった。


 政子は頼朝に夢中になった。しかし、父親の北条時政は「頼朝は平家の敵だ。そういう奴に娘をくれてやることは、とりもなおさず、平家に弓をひくことになる」と言って、平家の伊豆の代官、山木兼隆へ強引に嫁入りさせようとし、政子は渋々承諾して山木の館に入った。


その当時、親が決めた結婚は絶対服従で、断るようなことは考えられない。が、半年後、頼朝と示し合わせて山木が手出しのできない伊豆山権現へと出奔する。伊豆山権現というのは神社であり寺でもある宗教の聖地だ。

 治承二年(一一七八年)、政子は頼朝との子ども、大姫を生み、父、時政は山木に政子のことは諦めさせた。こうしたことから頼朝は北条氏を頼みにするようになった。


 治承四年(一一八〇年)、以仁王から平家追討の令旨、つまり、平家をやっつけろという天皇方面からの命令というか指示が来たことから、北条氏を始めとする伊豆の地方豪族を糾合して頼朝は決起した。相模の国の有力豪族、三浦一族の助勢を頼みとしたクーデターだったが、様々な事情で三浦の到着は遅れる。頼朝軍は窮地に立った。


「この後がこの芝居の最大の見せ場なんだ」と良太が言い、それまで他人事のように聴いていた真吾がうなずいた。


「頼朝のクーデター軍の勝利を祈りながら、政子と保子、四人の侍女が伊豆山権現に身を隠している。戦況の報告が郎党によって何度ももたらされるんだ。その郎党役が真吾だ」


◆◇


 真夜中、微かに戸を叩く音がして、押し殺したような声が聞こえた。


「もし、お目覚めでございますかっ」


 侍女の一人はあわてて蔀戸(しとみど)を開けた。燭を近付けると、縁先にうずくまったものが微かに身動きし、やがて全身の力を振り絞るようにして顔を上げた。

「あっ!」。政子や侍女たちの口から驚きとも悲鳴ともつかない叫びが上がった。


 いつも情報をもたらしてくれる郎党だったが、その顔には血の色がなく、泥と雨と血にべたべたにまみれ、眼ばかりがぎらぎら光っている。肩先がざっくり割れて、今も血が噴き出している。さらに足や腰にも傷を受けているらしい。


「お味方は…」


 縁にすがってそれだけ言うと、ずるずると体が崩れた。


 政子は小走りに縁際まで近付き、侍女に「手当てをしておやり」と言ったが、侍女たちは生まれて初めて見る凄惨な手負いの姿に度肝を抜かれて動けない。


 政子は自ら郎党の肩の傷に布を当てた。


「も、もったいのうございます」。郎党が喘ぐように言うのを、「じっとしておいで、雨がしみて痛かったろうに…」。政子はそっと傷口を拭い続けた。


 気を取り戻した保子が、血止め薬を持って駆け寄ってきた。


◆◇


 あれ? それって最近どこかで見た覚えが…臨太郎の脳裏に、あの土曜の午後、横須賀中央駅のガード下で遭遇した真吾の血だらけの顔、ミントに駆け込んだ時に真吾に駆け寄った荒井薫子の必死な顔。蓮子の冷静な行動…そうか。

 真吾を見ると真吾も臨太郎を見つめていた。


「もちろん偶然だよね?」。真吾は何も言わずにうなずいた。良太もうなずいた。


「驚いた」。臨太郎はうめいた。


◆◇


 介抱を受けながら、とぎれとぎれに郎党が語るには、夜に入ると敵方が優勢になり、政子の父、兄、弟はからくも無事だったが、頼朝は行方不明とのこと。


 政子は無表情で「行方知れずなら、死んだことではありませんね」とつぶやいた。


 政子が聞いていた都にいる王朝の女はこうした時、狂ったように泣き崩れるか、失神してしまうらしい。


 しかし、坂東の女、政子は泣き崩れも失神もしなかった。


(私は今、生涯で最悪の状態にある。その私が今、できることは何?)という現実的な考え方だった。


 それまでは勝気だと言われながらも、結局は父や兄や夫を頼りにしていた。それが今、誰一人、頼りにする人がいない最悪の状態だった。


 この時、初めて、両足を突っ張って大地に立つことを政子は知った。


 王朝の女とは違う、土のにおいのする坂東女の生き方を政子が掴んだのは、まさに、この瞬間であったのかもしれない。


 行方不明は死んだことではない、という言葉も、強がりでなく、自然に口から出た。


(先のことを考えても仕方がない。今のことを考えよう)


 そして、今やらなければならないのは、妹や侍女たちを落ち着かせることだ。それから、次の使いを待つことだ。


◆◇


「この後、政子たちは別の場所に移動する。勢いに乗る敵方が自分たちを捕まえようという目論見を崩すためだった。そして、移って七日目に使者が待ち焦がれた便りを持ってきて来た。頼朝が無事だという頼りだ。そして、真鶴岬から船で安房、千葉に父、弟たちと渡った。しかし、兄は戦死したという。政子は否応なく激動の時代を生き抜かなければならない。これで終わり」


 良太は新しく煙草に火を着け、うまそうに煙を吸い込んだ。その途端、階下でドアは開く音がして、「誰かいるの? 良太?」という姉のみどりの声が聞こえた。

「やべえ、窓を開けて煙を追い出せ」。小声で言ってから、ドアから首を出して、「ああ、俺」と大声で答えた。


引用文献:

『北条政子』永井路子著。講談社



# by toshi58asahi | 2026-03-05 05:39 | Comments(0)

第101回「その後の『新宿スイング』」

【そして文化祭へ 第二章 演劇部】第二回 全校生徒を前にリハーサル


七月二十一日、月曜日。夏休みに入って初めての演劇部の部活だ。


「こんにちは!」


演劇部の練習場所の教室に生徒会長の五十嵐蘭と書記の大野初美が勢いよく入ってきた。初美は良太の姿を探したがいなかったのでがっかりした。


「初美、残念でした。倉谷さんはまだよ」。洋子がからかうと、部員たちが笑った。


「そういうことを言ってると、グッドニュースを教えてあげません」と言って教室を出ていく振りをした。


そこに良太が入ってきて、「お前、また演劇部に迷惑を掛けてんじゃないのか」と笑った。


「んもう、蘭、何とか言ってよ」と膨れた。


じゃれ合いを断ち切るべく。洋子は「グッドニュースって何?」と蘭に向かって聞いた。


蘭は「ニュースは二つあります。一つはすごくいいニュース、もう一つは微妙なニュースです。あの、それで今日、荒井さんは?」


「アルバイトだけど?」


「初美、あんたから説明しなよ」。蘭が命じた。


 初美が「前に私が言ったこと覚えてますか? 荒井さんが定時制に移っても今の部活が続けられるかって話」と言った。


 覚えてまーすという声が方々から聞こえた。


「その話、職員会議では了承されたから、後は定時制の先生方や生徒側がどう判断するだったんです。それで、一昨日、全日制と定時制の生徒会の交流会があって…オーケーになりました!」


 一瞬置いて、教室が揺れるぐらいの歓声が上がった。


「すぐに知らせたかったけど、演劇部は帰った後だったし、みなさんが一緒のところにお知らせした方がいいと思って。高山さんから聞いていると思うけど、蘭が山下先生に話して」という続きの話は誰も聞いていない。みんな興奮していた。


手塚が「私、ミントの薫子に電話してきます」と言って、すぐにでも行こうとすると、「手塚、ちょっと待って。もう一つの微妙なニュースを聞いてからにしようよ」と美紀が止めた。


◆◇


「じゃ、もう一つのニュースは私から説明します」。蘭が言った。


「九月十五日の学校の創立記念日は例年、終日、部活ができることになっていますね」


部活をやっていない帰宅組は教室で自習だ。というより自由時間で、通常の終業時間まで校内にいれば何をやっていてもいい。翌十六日は毎年振り替え休日になっている。


「一昨日、学校側から予定していた校外から招く著名人の公演が中止になったので、その代替案を生徒会が考えろという指示がありました」


勝手なことを言ってと腹を立てた蘭だが、グッドアイデアが頭に浮かんだ。


「それなら、演劇部が今練習されている『北条政子』のリハーサルをやってはどうかと考えました」


何それー、意味分かんない、などの声が返ってきた。


それにめげず蘭は続けた。


「リハーサルを生徒に見てもらいます。例えば、事前にリハーサルを行うことを告知して、観たいと思う生徒を募り、体育館で行うリハーサルを観てもらって、その場でアンケートを取って、それを『北条政子』に生かす、よりよいものにするということです。うまく説明できなくてすみません。それに、文化祭の本番の宣伝にもなると思います。親や兄弟、知り合い、友達に『面白いから観に行こうよ』と宣伝してもらう効果もあると思います」


 演劇部の部員たちは面食らったが、蘭のプロモーター気質、イベンター気質を初美から聞いて知っている良太は冷静に受け止めた。


 教室は静寂に包まれた。それを破るように、「一回やればお役御免と思ったら、二回もやるのか?」。良太が茶化すような口調で言った。


「学校側には少し時間が欲しいと答えました。演劇部のみなさん、お願いできませんか?」と言って口を閉じた。


◆◇


「いきなり本番よりはいいかもしれないね。芝居が初めての倉谷君たちも生徒だけが相手なら少しは気が楽だと思うな。みんなの意見を聞きたい。薫子と木下君の意見も聴かなければならないから、結論は少し待ってね」と洋子は蘭に答えた。


「もちろんです。できれば早めにお答えをお願いします」と言って初美とともに教室を出ていった。


「手塚。薫子に電話してきて。今の話もね。それから倉谷君も木下君に今の二件、話しておいてくれない。二人が来た時に話し合うから」と言った。


 手塚は素早く公衆電話のある事務室へ向かい、良太もうなずいた。


 実は良太は舌を巻いていた、蘭の話の持っていき方に、だ。まず薫子の件で吹奏楽部に貸しを作り、それから創立記念日についての頼みごとをする。演劇部としては断りにくくなる。なかなかやるなと思った時に愕然とした。それは自分の考え方の投影であり、蘭にはそうした考えはなかったのかもしれない。


(俺は汚れている)


 あまり反省することのない良太が珍しく自分の内面と向き合っている。


「倉谷君、何をボーッとしてるの? これから土曜日に話した配役を決めなければいけないんだからね。自分のはもう済んだって思わないで、積極的に発言してね」


 副部長の美紀に釘を刺されて、良太は我に返った。


「ああ、了解」


◆◇


侍女役四名と代役四名、裏方二名だ。


自己推薦、他者推薦、譲り合い、押し付け合いなどいろいろ揉めた結果、次のような結果となった。


政子/代役=手塚敏江(二年)


保子/代役=小野寺誠(二年)


郎党/代役=桐生朋美(一年)


説明者/代役=美濃部里香(二年)


侍女=甲斐みつき、立川京子、橋本律子(二年)、中村忍(一年)


照明・大道具・舞台装置=水島裕子(一年)


音響効果・衣装・化粧=玉木純子(一年)


 なお、代役の四名は裏方も担当、または手伝う。


進行・舞台監督=手塚敏江(二年)


照明・大道具・舞台装置=美濃部里香(二年)


音響効果・衣装・化粧=小野寺真琴(二年)、桐生朋美(一年)


 大道具・舞台装置など力仕事については男子の良太と真吾が全面的に手伝うこととする。


「次は台本。第一稿は持ってるね。それを見てね。改稿した台本をざっと読みあげるから、変なところ、違和感がある部分を何でも言ってください。そして、討議し正式の台本にします。台本、配役を山上先生に提案して、了承してもらったら本格的に『北条政子』の練習をスタートします」


◆◇


 台本の中身を聞いた部員たちは口々に、「ずっと分かりやすくなりました」とか「昔の話なのにすごくリアルに感じます」とか「第一稿にあった『現代を生きている女性は政子に恥じない生き方をしているでしょうか』という問いかけが表現されていると思います」など興奮して語った。


 中には「木下さんの郎党がすごく楽しみです」と真吾が聞いたら緊張の度が増すような意見や、「倉谷さんの役が一番むずかしいかも」という良太にプレッシャーをかける意見もあった。


 ともかく、台本は非常に好評だった。


「では、配役と台本はとりあえずいいとして、その他の重要なことについて話し合いましょ。まず衣装。玉木純子、早速だけどどう考えるかな?」


 純子は「高山さんが前におっしゃったのは、確か、北条政子の時代に合わせてそれ風にすると喜劇になっちゃう、着物は着るし、髪も後ろでまとめるけど、メイクはしないと。そうした衣装やメイクに頼るのではなく、演技で観る人がその役と認識できるようにしなければいけないと。それは正しいと思います」

 

「純子、よく覚えてるわね、私が忘れちゃったようなこと。でも、意外にいいこと言うね、私」


美紀が「よく言うよ、自分で」と突っ込んだ。


「じゃまず着物はどうする? できるだけ地味な色柄の着物と帯がいいよね。家にある人、お母さんやおばあさんが着ている、または着ていたものがあったらそれを借りる。ない人のためにできるだけ多く用意する」


「地味な色柄って想像が付かないんですけど」。純子が聞いた。


「私も分からないけど、結婚式や成人式に着ていくようなものじゃないことは確かだね。暖色系の色でも日本らしいおとなしめのものかなあ。派手な刺繍が入ってるのはだめだね。とにかくできるだけ持ってきてね。見てからみんなで決めようよ。帯はできるだけ細いやつ。それをお腹の下の方で締めるんだよ。江戸時代みたいな『お太鼓結び』じゃなくて、ごく簡単に結ぶらしい。調べとくね」


「それと、男はどうする? 着流しだとなんか変じゃない? 演歌の歌手みたいでさ」。美紀が言った。橋幸夫? 三波春夫でございます。一節太郎って「にーげたにょうぼ」だっけ。


「ああ、うるさい。真面目に行くよ。そうだな、袴。そう、袴がいいよ。武士って感じだよ。でも、どこから調達するかが問題だな」


◆◇


「メイクはしないって言うけど、ノーメイクってわけにはいかないよね。みんなはどうでもいいけど、私はいや。薄くてもする」。美紀がなぜか息巻いた。化粧の話になると俄然張り切る美紀であった。


「髪はどうする? 今までの大河ドラマなんかみると、女は長く伸ばして中間ぐらいを結んでいるね。結ぶの、細く切った半紙がいいよ。鎌倉時代って感じじゃん」


「それがいいね。男子の髪はどうする。そのままでいいか」。洋子が言った。男子の髪型まで考えるのは面倒臭いということか。


 部員たちが盛り上がる中、良太は黙っていた。いや、下手に口を開くと文句ばかりになってしまうからだ。自分が着物を着て袴をつけている姿を想像し、あまつさえ薄いとはいえメークもする。


(こりゃ、真吾の反応が怖いぜ)


「次、大道具。政子や保子、侍女たちがいる場所は建物の中にある部屋で左が入り口。舞台から少し高くして、それが部屋の中という設定にする。どうやって高くするか考えなきゃならない。裕子が中心になって考えてね」。洋子が大道具担当の水島裕子に言うと、代役担当で大道具を手伝う美濃部里香が、「背景も考えなければいけないかと思いますが、裕子と一緒に考えます」と答えた。裕子は一年なので二年の里香が当面はリードすることになるだろう。


「もう一つ、これは私が担当しますが、今回は歴史劇なので、立ち居振る舞いが現代風では違和感があります。古い時代の日本ならでは『所作』を学ぶ必要があります。そのコーチとして打ってつけの人がいます。事務の名取まゆみさんです」


寅松マーケットの事件で荒井薫子からの電話を取り次いでくれた人だ。


「名取さんのお父様は小笠原礼法の師範をされていて、名取さんも小さい頃から礼法を学んでこられ、今はうちの高校で働きながら師範となるべく修業中です。所作の指導を頼むのにぴったりだと思うんです」


# by toshi58asahi | 2026-03-01 09:42 | Comments(0)

第100回「その後の『新宿スイング』」

【そして文化祭へ 第二章 演劇部】第一回 頼朝は出ない


 七月十九日、土曜日、終業式を終えて演劇部の部員はいつもの練習場所である教室に集まってきた。明後日、二十一日、月曜日からの夏休み中の練習スケジュールを正式に決める会議がある。

 部長の高山洋子と副部長の島田美紀は、憂鬱な表情を浮かべながら、教室にやってくる部員たちと挨拶を交わしていた。表情がすぐれない幹部たちを見て、部員たちは一様に不安な気持ちを抱いた。

「では、早めにお昼を食べちゃおう。男子二人はどこかで食べてから来るって」。美紀の言葉をきっかけに、部員たちは弁当を食べ始めた。いつもなら賑やかな昼食時間だが、洋子と美紀がたまに溜息をつきながら食べるものだから、二人の憂鬱が伝染して教室全体の空気が重い。

「洋子先輩と美紀先輩。何なんですか?」。クルクル天然パーマの二年生、手塚敏江が尖った声を上げた。「明日から夏休みだからみん。な張り切ってるのに、それに水を差すみたいな態度、やめてください」先輩に対しても遠慮せずに直言するのが手塚のいいところであり怖いところだ。

「配役」と洋子がぶっきらぼうに言った。

「えー! やっと決まるんですね」。手塚が叫ぶと、他の部員たちも歓声を上げた。


◆◇


 男子の笑い声がだんだん近付いてきて、ドアが開いた。

「ちわ」「ちわ」女子は絶対しない乱暴な挨拶とともに男子二人が入ってきた。

 その瞬間、洋子は荒井薫子の顔がパッと輝いたのに気づいた。真吾も入ってきた瞬間に視線で薫子を探し、二人が一瞬視線を絡ませる。あの事件が起こってからずっとだ。演劇部の全員が知っている。知らないと思っているのは、おめでたい二人だけだ。

「お昼を食べてからって言ったけど、あんたたち、遅すぎるよ。もう十二時半。さっさと席に座って」。美紀が言うと、「今日はあなたたちに関係する大切な話から始めるわ」と洋子が続けた。

「以前渡した台本は大幅に改稿します」と洋子。そして、黒板に配役を書いた。


脚本、演出=高山洋子(三年、部長)


北条政子=荒井薫子(二年)


 ここまでは予定通りだ。


郎党=木下真吾(三年)


「何? 頼朝は? 郎党って?」。部員たちが不思議がった。


政子の妹、保子=島田美紀(三年)

説明者=倉谷良太(三年)

「えっ? 説明者って?」。部員たちはさらに不思議がった。

侍女=四名。未定

◆◇


 洋子が振り返って、「くわしく説明するね。それから質問を受け付ける」と有無を言わさない表情で言った。

 そして、ちょっと芝居がった口調で言った。

「この芝居では頼朝が出ません。それだけでなく政子と保子以外は役名もありません」

 衝撃的な宣言だった。部員たちは反応することも忘れて洋子の顔を見つめている。

「第一稿を読んでもらった後、何人かから意見をもらったの。歴史や国内事情、登場人物の置かれた環境、人間関係などが複雑すぎて、芝居だけでは説明できない。観客に伝わらないだろうなって、書いた私自身も書いた後で気になっていたの。だから、そのいろんな情報を説明者ができるだけ簡単に説明する」

 いち早く劇作家、洋子の意図を理解した部員たちは、「すごく斬新」とか「第一稿よりずっと分かりやすい。あ、部長、すみません」とか「早く観たい、あ、やる方か」など私語が飛び交った。

 良太も理解したが、真吾は、「よく分からんが、良太が必要なくなったことだけは分かる。もちろん俺もだ。無理やり『郎党』だの『説明者』だのにする必要はないだろ」と意地悪く笑った。「そういうことだな」と良太は同調した。

 焦った洋子は「そういうことじゃないの。必要ないなんて言ってないじゃない。もっと必要になったのよ」と大声で返した。

「とにかく俺の役割は分かった。しかし、真吾の『郎党』というのもまたしぶいね。どういった設定になるのかな」。良太が聞いた。
 

「うん、頼朝が戦っている中、その戦況を政子に知らせる役目で、もう一つ重要なのは大けがを負いながら頼朝の行方不明を知らせる役目。これが政子が自立するきっかけになる大切なシーンになる。政子との絡みも多くなるね」

 最後の言葉は薫子にとってはうれしいニュースだ。洋子はあえて強調した。薫子は顔を紅潮させている。

 そこに真吾が口を挟んだ。

「だったら、その役を良太がやればいいじゃないか。俺は良太にくっついてきただけだから。俺はお役御免だろ?」。女心が全く分からない無粋な奴、と洋子は心の中で詰った。

「はっきり言うと、役者として倉谷君より木下君の方が才能あると思う」

 その瞬間、薫子は男子二人の顔を見た。部員全員が男子二人に注目した。ショックだろうと思った良太は淡々とし、評価された真吾は困惑していた。

「この一カ月近く、手塚のコーチで二人とも役者としての基礎練習を行ってきた。その成果を見るため月曜日に即興の芝居をやったでしょ」

 二人を何人かの部員と組ませて、路上で幼馴染と会った、突然恋人から別れを告げられた、友達がいじめに遭っている、などの簡単な設定で芝居をさせるというものだ。

「木下君は予想以上に役者としての資質を持っていることが分かった。動きは硬いし、しゃべりは棒読みの上にぶっきらぼう。でも、木下君はそれが個性だと思う。木下君には失礼な言い方かもしれないけど、意外に掘り出し物かもしれない。何よりも鎌倉時代の武士の郎党にはぴったり」と大絶賛だ。

「一方で、倉谷君は芝居心がある。高校生とは思えないほど弁が立つ。それは真上誠治さんや臼田絹さんが指摘していた。現代を舞台にしたコメディーならそれが生かせると思うけど、今回の芝居には合わない。だけど、落ち着いた口調で物事を説明する才能はすごいと思う。だから、芝居に絡まない説明者にしたいと思ったの。今回のような台本にしようと思った大きな理由は、今言ったような二人の存在があればこそなの。二人がいなかったらこんな発想はでてこなかった。感謝します」

 部員全員がこの提案を受け入れた。


◆◇

「美紀は三年生で最後の舞台ということで、無条件に役が付きます」

 残りは十名。

 政子や保子の「侍女」役には四名。

 残りは六名。

「そこで相談なの。薫子は演劇部の練習にかかりきりになれない。木下君も夏休みはアルバイトの掻き入れ時だからおんなじ。だから、二人はアルバイト優先で練習をする。これについては前に言ってある。みんなの了解はもらっているわね」

 部員たちはうなずいた。

「それから、三年生部員も練習にかかりきりになれない。というのも受験勉強があるからです、私も含めて。私と美紀は私立女子大学の推薦入試を受けるので一般入試に比べたら楽かもしれない。でも、念のため受験勉強もします。倉谷君はまだ進路が定まっていないけど、大学行くんでしょ?」

「ん? ああ、勉強やんなきゃなあ」。のんびり言うと、「落第でもう一回、三年生だったりしてね」と美紀が言った。

「ということで、来年も説明者ということで、よろしく!」。洋子の言葉に部員たちは大笑いだ。

「冗談はともかく勉強もね、説明者さん。木下君は?」

「たぶん、今のアルバイトの鳶の会社にそのまま就職することになるだろうな。就職活動なんて面倒臭いし、受け入れてくれる会社もないだろうし、な、手塚」

 何で自分に聞くは分からないまま、真面目な手塚は、「ああ、いえ、そんなことはないと思いますが、実際に面接すると何だか怖いというか、その、言うことを聞かなくちゃならなくなって、面接する人も困るんじゃないかと思うわけで…」。言っていることが分からない。

「手塚、困らして悪い。俺は就職組だ」

「そういうことだから、私、美紀、倉谷君も練習にかかりきりになりにくい。そうなると練習が進まない。対策として、薫子、木下君、美紀、倉谷君の四人がいない時は、他の部員が代役をやる必要があるのよ」

 そういうことなのか、ん? 「というと、代役の四人は本番で役がないということですね」。手塚が鋭く指摘した。教室の中が急に緊張した。

◆◇

「そういうことになる。でも、代役の人たちは代役を担当するメリットもあるのよ。この作品が好評で、今後も公演することになった場合、その代役の人はその役に付く優先権を得ることができるの」

 部員たちがざわつき出した。

 当然だ。初演の今回、侍女役を獲得するか、来年度以降の次回の公演での主役および重要な脇役の獲得を希望するか。決めなければいけないのだ。

 良太が「公平な仕組みを考え出したな」と言った。

「褒めてくれてありがとう。でも、これがベストかどうかは分からない。美紀と二人ですごく気が重かった」

 侍女役四名。

 代役四名。

 残りの二名は役者じゃなくて裏方だ。

 それを、二年(六名。手塚敏江、甲斐みつき、小野寺真琴、立川京子、美濃部里香、橋本律子)と一年(四名。水島裕子、桐生朋美、中村忍、玉木純子)で調整する。

「ということ。どうかな」

 オーケーですという声が十名から上がった。

「賛成してくれてありがとう。では、来週月曜日までじっくり考えてください。私は月曜日までに新しい台本を仕上げてきます」

 重い荷物を下ろしたような表情で洋子は言った。



※バックナンバー



第1回●ラーメン屋のBGMがジャズの安住の地? : 旭利彦の「日本人にとってのジャズ」



第20回●新シリーズ「渡辺貞夫と山下洋輔」 : 旭利彦の「日本人にとってのジャズ」



第27回『新宿スイング~十手とジャズ~ 第一回ダンスホール「カメリア」』 : 旭利彦の「日本人にとってのジャズ」



第49回『ジャズへのアプローチは無限にある「ジャズと麻薬と小説と」』 : 旭利彦の「日本人にとってのジャズ」



第58回「その後の『新宿スイング』」 : 旭利彦の「日本人にとってのジャズ」



※アサヒは別のエキサイトブログで小説を掲載しています。

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「尼僧は腕っぷし~街に地上げがやってきた」第1回●ホコテンに寝て、下から歩行者を眺めてみませんか? : 小説アサヒ



「尼僧は腕っぷし~平成鎌倉宗教の乱」第1回 : 小説アサヒ



# by toshi58asahi | 2026-02-26 16:41 | Comments(0)

第99回「その後の『新宿スイング』」

【そして文化祭へ 第一章 吹奏楽部】第六回 ドブ板通りよりはるかにヤバい街


次に挑戦する曲は『イン・ザ・ムード』に決まった。時刻は午後二時半だ。


丈二はエレキギターとアンプをバックヤードから運んできた。追分団子に熱中していた部員たちは、その光景を見るとはなしに見ていたが、気が付いた。あれ? 演奏するの? 聴かせてくれるの?


「うんと、そうだな。臨太郎、何にする?」


 それだけで臨太郎には分かるらしい。


「ウエス・モンゴメリーがコルトレーンの『インプレッションズ』やったのあったじゃん、あれどうかな」


「ちょいとむずかしいが、やってみんべえか。りんさん、ピアノ頼めるか?」


「うん、コードワークだけだよ。アドリブは無理だよ」と言ってピアノの前に座った。


 それを聞いた部員たちがざわめいた。一カ月前、臨太郎が退部騒ぎを起こした時に聴いた曲だからだ。ただ、その場にいなかった顧問のかおりだけは、周りのざわめきに付いていけなかった。


「ねえ。『インプレッションズ』て何?」。横にいたドラムスの根来に聞いた。


「すぐに始まりそうですから、終わった後で説明します」


 丈二のソロ演奏が始まった。テナーサックスとは全然違う。正確無比なビートが刻まれつつ穏やかなスウィング感が全体を包む。グルーブ感と言った方がいいのか。


「秋山! 俺たちに乗れ」と突然丈二が叫んだ。


 戸惑う秋山に、「俺たちをベースで支えろ。意味分かるだろ」と鋭く指示した。


 意味を理解しベースを構えた秋山は、丈二が奏でるメロディーにベース音を添わせた。


「そうだ、できるじゃねえか。次、根来! お前も乗ってこい。間違えてもいいぞ。好きにやれ!」


 根来は躊躇なくドラムに駆け寄った。


 秋山と根来は丈二の催眠術に掛かったように疾走し始めた。


 我慢ができなくなったかおりは席を移動して、臨太郎に聞いた。臨太郎の耳に向けて「これって何?」と囁くと、臨太郎はかおりの耳に囁き返した。


「部でジャズをやろうという話になった時に、参考で掛けた曲です。テナーサックスのパートをギターに変えています」と簡単に答えた。


 何を言ってるか分からなかったし、りんがピアノを弾くことに関しても聞きたかったが、曲に集中したそうな臨太郎を見て、かおりは更なる質問を諦めた。


 演奏が終わり、店内は驚きと感動の歓声と拍手が満ちた。


 秋山と根来は自分が信じられないという表情で仲間たちを見回している。


 丈二はギターネックを持ってプラグを抜いた。


◆◇


「三時だ。今日はこれでお終い。今、亭主の真上誠治が来る。駅まで送らせるからちょっと待ってて」とりんが言った。


 それに対してかおりが「いえ。そこまでお手間を取らせては申し訳ありません。私たちだけで帰ります」と答えた。


「いや、新宿はやっぱり新宿なのよ。この西口エリアはそんなことはほとんどないけど、東口、特に歌舞伎町は高校生が立ち入るにはリスクが高すぎる。はっきり言えば、犯罪に巻き込まれる覚悟がなければ入っちゃいけない街って言っていいかな」


 臨太郎が「横須賀のドブ板通りみたいな?」と言うと、「そうだな。別の意味ではるかにヤバいかもね」と答えた。


「西口も…今日は国鉄新宿駅からまっすく青梅街道に来たよね。その道と線路の間に何だかゴチャゴチャした飲み屋街があったの、気が付いた? あそこは終戦直後にできた闇市がそのまま残っている一角だ。ちょっとした冒険心で通ろうと思っちゃいけない。高校生には太刀打ちできない場所だ。歌舞伎町はその何十倍も危険だ。で、これからせいさんが新宿駅東口までみんなをガードしていくと言ってる。朝は普通の街だけど、遅くなるにつれて剣呑な街に変わってくる。年は七十だけど頼りになる。先生、いいよね?」


 そう言われて、かおりは拒めず「よろしくお願いします」と答えた。


◆◇


 

 部員たちが帰り支度を終えて、りんや丈二と次回の確認をしている時に、誠治が入ってきて、「用意はできたか?」と聞いた。


「せいさん、頼みます」と臨太郎が答えた。


「では、来週もお願いします」というかおりの挨拶をきっかけに、部員たちがお辞儀をしてからドアを開けて地上への階段を上った。最後尾に誠治が付いてくる。


空を仰いだ誠治は「まだ、日差しがきついね。だから、ゆっくり歩いていこう。そうそう、俺が戦争中まで働いていたのが、あの新宿署だ」と青梅街道越しにあるビルを指さした。その向こう側は空が広がっていて、ところどころに高層ビルが頼りなげに立っている。


 横断歩道を渡って行きに歩いてきた道をたどった。国鉄の大ガードが見えてきた。手前の四つ角を右に曲がれば行きのルートの通りだ。


交差点で立ち止まった誠治は予想外の提案をした。


「さて、少し人生勉強と行くか。りんが説明したかもしれないが、あそこ一帯は戦後の闇市がそのまま残っている飲み屋街だ。その名も『しょんべん横丁』。真ん中を突っ切るぞ!」


 こういうことが好きな男子部員は思わず「オー!」と歓声を挙げて片腕を突き上げたが、女性部員は「エー!」と戸惑いの低い声で応える。


 誠治が怖いかおりは、臨太郎に小声で抗議する。「おじいさま、何をおっしゃってるの? 人生勉強って。ガードしてくださるのよね」とぼそぼそ言い募っていると、信号が変わって誠治が出発してしまった。元気な男子が誠治にくっついていく一方、女子がいやいや付いていく。


「先生、たぶん、これには意味があるんですよ。通い慣れてきたら、どうしても帰りに道草を食いたくなる。だから、りんさんが新宿の怖さを説明したんです。ガードが必要と言ったことで、その怖さがよりリアルになりましたよね。そして、実際にそのエリアに入っていくことで、気を付けなければならないことを間近で感じる」


 かおりが何か言いかけると、「もう一つの目的は、僕たちが自分の知り合い、または身内に近い者だちということを、エリアの人間たちに知らしめる。これから見掛けることもあるだろうけど、決してちょっかいを出すなよ、という示威行動なんだと思います」と言った。


 かおりは意外過ぎる返答に返す言葉を失った。


 大ガードに向かって進むと、高架ガードの向こうに賑やかなビル街が見えた。


「あそこから向こうが歌舞伎町だ。りんも言ってたろ。足を踏み入れたら絶対に後悔するぞ。肝に銘じておけ」


 迫力に押されて部員たちは無言でうなずいた。


◆◇


  縦長のしょんべん横丁の入り口からのぞき込むと、左右に間口が一間ほどの狭い飲み屋が連なっている。


 誠治を先頭に、怖さと好奇心が半分ずつの高校生プラス教師が“魔窟”に足を踏み入れた。


  焼鳥、モツ焼き、うなぎの店からは、香ばしく食欲を刺激する臭いがもうもうたる煙とともに道に押し寄せる。


カウンターだけの店にはこんな早い時間から、男たちが酒を飲んでいる。カウンターの中にいる店の男や女たちが「どうぞー、飲んでってー」とか「美味しいとこ焼けてるよ」と声を掛けてくるが、明らかに未成年と分かると、「ここに何の用? マクドナルドは東口、新宿通りだよ」とか「商売の邪魔だよ」と不機嫌な声を投げつける。


その声が聞こえると、誠治はその店に向かって、「了解。そういうことをこの子たちに教えてる。忠告ありがとう」とかなんとか言い返す。


「あ、誠治さんの連れ、だったんですか。まいったなあ」と頭を掻く。横丁を通り抜ける間、そんなことが何度もあった。


 中には、部員たちが楽器のケースを背負っているのを見つけて、店からわざわざ出てきて、「おねえちゃんたち、何の用? 一曲やってくれねえかな。ラッパ? ジャズできる?」と絡んでくる男もいた。


 臨太郎は「できるけど、ギャラ高いよ。払える?」と言うと、「じゃいいや」と店に引っ込んだ。それを誠治は微笑みながら見ていた。


“魔窟”を抜け、誠治は「どうだ、面白かったか。その顔じゃ、そうだったりそうじゃなかったり、だな」と言ってから、線路の方を指さして、「ここから線路の地下道を潜る。その先は東口で新宿通り。今日はホコ天やってんだろ。このエリアで一番安全なところだ」と言った。


 ガードに沿ってしばらく歩くと左に歩道が下がっていく。東口へ貫通する地下道だ。道幅が狭く天井が低い上、照明が少ないので、前から来る人にぶつからないように歩くのが一苦労だ。


 その分、地下道を抜けた時の解放感は素晴らしい。


◆◇


 国鉄新宿駅東口の広場で、送ってくれた誠治にみんなが口々お礼を言った。


「いやいや、若い人を引き連れて自分の縄張りをパレードするのは面白かったぞ。またやろう」


 駅に行こうとした一行の中で声が上がった。


「先生、今日はここでたぶんこのまま団体行動で帰ることになるんでしょうが、次もそうなんですか?」。二年生の下条佳世だ。


「決めてなかったけど、そうした方がいいと思う」と言った途端、渋谷や原宿を通り過ぎるのって酷ですとか、夏休みですよとか、ものすごい勢いで全員から猛抗議が吹き上がった。


 たじたじとなったかおりは、「それは帰りの電車の中で話し合いましょ、ね」と言って駅に向かった。


 後ろを振り返った臨太郎は、自分たちを見守る誠治を見て、手を振った。誠治も振り返した。


# by toshi58asahi | 2026-02-22 16:50 | Comments(0)