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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第12回●戦後、アメリカ文化の“最先兵”としてスイングジャズが上陸した

キーワード: 進駐軍放送/進駐軍クラブ/日本人ジャズメン 


 前回、戦前における日本で初めてのジャズブームについて紹介した。太平洋戦争への突入によって、日本におけるジャズは瀕死同然の状態だった。しかし、実際はそういうこということはなく、水面下でしたたかに生き残っていた。井上ひさし作の戯曲『きらめく星座』は戦争突入前の日本人が、禁止されながらもジャズを始めとした“敵性音楽”をいかに愛したかを紹介する音楽劇。単行本『きらめく星座昭和オデオン堂物語』でも楽しめる。


 1945年、昭和20815日、日本は敗戦または終戦した。それを機に堰を切ったかのように日本になだれ込んだのがアメリカ文化で、特にジャズの大奔流は“隠れジャズファン”の息を吹き返させただけでなく、日本の大衆音楽をも大変革させることになった。


 そのジャズこそ、戦前のディキシーランド調のジャズよりもっと派手で明るくソフィスティケートされたダンスミュージックの「スウィングジャズ」だった。


「かまやつひろし」または「ムッシュかまやつ」の自伝『ムッシュ!』(日経BP社。200292日初版第1刷)にこんな記述がある。


1945年、アメリカ軍が日本に進駐してくると、進駐軍放送――のちのFEN、現在のAFNだが、当時はWVTRというコールサインで呼ばれていた――が始まり、ラジオからジャズがあふれるように流れてきた。若者はみんなそうだったと思うが、ぼくもジャズの魅力にとりつかれた〉


 19461月に7歳になったムッシュの証言だ。かなり早熟であるが、それというのも父親が戦前から活躍してきた「ティーブ釜萢」、叔父が同じく戦前から活躍してきたジャズトランぺッターの「森山久」(森山良子の父親、森山直太朗の祖父)という音楽環境があったからだろう。


〈夢中になってWVTRを聴き、ジャズにのめり込んでいった。森山家にはルイ・アームストロングやハリー・ジェイムズなど、昔のオーケストラのレコードがたくさんあったので、それもかたっぱしから聴いた。デキシーランド・ジャズにハマってしまったぼくは、叔父・森山久にトランペットを習い始めた。


 52年にジャズ・ドラマー、ジーン・クルーパが来日した。ぼくが初めて目の当たりにした外タレのコンサートだった。翌53年には、先ごろ亡くなったノーマン・グランツ率いるATP、そしてルイ・アームストロングがやって来た。日本中がジャズ・ブームにわき、大騒ぎだった〉


 ムッシュの証言をもう少し続けよう。


〈戦争が終わって1年か2年後くらいに、ティーブはやっと戦地から帰ってきた。森山久がニュー・パシフィック・オーケストラというバンドを米軍相手にやっていたので、一緒に仕事をするようになった。米軍に接収され、沖縄で戦死した従軍記者の名をとってアーニー・パイル劇場と改名された宝塚劇場や、新橋第一ホテル、横浜グランドホテル(現ホテル・ニューグランド)などが主な仕事場だった〉


 ムッシュは1516歳ぐらいまではジャズ一辺倒だったが、次第に興味はカントリー&ウエスタンに移り、その後、ロカビリー、グループサウンズと転身していった。


 ムッシュが熱中したのはディキシーランドジャズだったが、ジャズ・ドラマーのジーン・クルーパはスウィングジャズの名ドラマーで、スウィングジャズを代表するベニー・グッドマン・オーケストラを支えたジャズメンでもある。


 そのクルーパが来日した1953年前後、〈多くの日本人にとってのジャズとは、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーのようなスウィング系、またはスウィング以前のディキシーランドジャズ、あるいは今日「ジャズ」と全く見なされないさまざまなダンスミュージックや歌などを指していたのである〉と『戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ』は記す。


 戦前からほとんど全ての西洋の大衆音楽は「ジャズ」と呼ばれていた。戦後もその傾向は続き、ジャズのみならずハワイアン、タンゴ、ラテン、カントリーもみな「ジャズ」だった。その中でディキシーランドジャズは既に“過去”のジャズとなっていて、ジャズと言えばスウィングジャズだった。


『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(村井康司。シンコーミュージック・エンタテイメント。2017106日初版発行)では、日本の敗戦で日本に上陸した占領軍(進駐軍)の将兵のためにダンスホールやナイトクラブなどの施設を提供することになり、〈そうなると、アメリカ人が喜ぶ音楽を演奏するミュージシャンが大量に必要になります。不遇をかこっていた戦前派ジャズ・ミュージシャンはもちろんのこと、元軍楽隊の人々、戦前に趣味で楽器を弾いていたアマチュアなどなど、実に多くの日本人が、実力に応じた報酬で、全国の進駐軍向け娯楽施設で演奏活動をなったのでした〉と記している。


 前述した宝塚劇場や新橋第一ホテル、横浜グランドホテルなどのほか、全国各地の進駐軍基地やその周辺に設置された施設で、〈日本の場合は、ダンスホールの他にも占領軍基地内のクラブがあった。当時、米軍基地や施設が日本全国に点在しており、したがってスウィングの演奏場が日本の辺鄙な地方にもあったわけである〉(同前)という。


 以上のように、終戦直後の日本のおけるジャズのメインステージは、ムッシュがラジオに齧りついて聴いた進駐軍放送と、米軍の将兵のためにホテルのボールルームや劇場、米軍基地内外のクラブなどの娯楽施設での“日本人”によるライブ演奏だった。


 進駐軍放送はラジオを持っている者であれば誰でも受信し聴くことができることから、日本におけるジャズ、特にスウィングジャズの普及に多大な貢献をした。一方、米軍の娯楽施設はもちろん米軍関係者を相手にするし、ダンスホールはダンスフリークがメインだ。


〈日本の戦後ジャズ状況を考えるとき、演奏場としての米軍関係のクラブにも触れなければならない。連合軍(主に米軍だった)による日本占領開始から朝鮮戦争直後までの間に、プロをめざしていた日本人のジャズ・ミュージシャンで、このようないわゆる「進駐軍クラブ」での仕事を経ていない者はほとんどいないと断言できる。アメリカによる占領と日本の戦後ジャズの発展は密接な関係にあった〉(戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ)


 夕方、東京の主な駅に日本人ジャズメンが楽器を手に集ってくる。手配師が東京や神奈川の米軍基地の名を連呼し楽器を持った男たちから選んでトラックに乗せる。日本人ジャズメンは連れていかれた進駐軍クラブで夜通し演奏し、トラックに乗って東京へと帰っていく。財布には当時の日本人では得られないような金額の現金を入れて。


 ジャズは戦後を生き抜くため、生き残るため、巧拙は別として楽器が演奏できる者が日々の糧が得られるチャンスだった。


〈そしてその時代にゲイ・クインテットを結成したピアノのフランシスコ・キーコとクラリネットのレイモンド・コンデというフィリピン人ミュージシャン(2人とも戦前から日本に在住していた)や、ジェームス荒木というハワイ出身の日系人米軍通訳兼サックス奏者のような「アジア系」ジャズ・ミュージシャンたちの貢献も忘れてはいけない。(中略)キーコとコンデは主にスウィング・スタイルを、荒木は当時新しいビバップを、戦時中ジャズから隔てられた日本のミュージシャンたちに紹介、指導することによって、戦後初期の日本のジャズの発展に欠かせない存在だった〉(同前)


 ここで注目してほしいのが「荒木は当時新しいビバップを」のくだりだ。ビバップは1940年代に発生した革新的ジャズの名称である。詳しくは次回に紹介するが、スウィングジャズをなんとかこなし始めた日本の若手ジャズメンの前に、スウィングジャズは過去のものと言わんばかりに、新しいジャズが出現した。


〈第12回・了〉 


参考文献:

1) 『ムッシュ!』(日経BP社。200292日初版第1刷)

2) 戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ(マイク・モラスキー。岩波現代文庫。2017516日第1刷発行)

3) 『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(村井康司。シンコーミュージック・エンタテイメント。2017106日初版発行)




by toshi58asahi | 2021-10-31 09:36 | Comments(0)