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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第15回●昭和30年代、ジャズの都会的雰囲気を取り込んだ「都会調流行歌」が登場

キーワード: フランク永井と松尾和子/宮川泰/中村八大/西田佐知子


 前回、昭和20年代(一部は30年代にかかっていたが)の日本の流行歌におけるジャズの影響について説明した。娼婦や靴磨き少年を主人公とした戦後の社会問題提起的なものを除いて、多くは東京暮らしとか恋愛の楽しさうれしさを表現する明るい内容だった。昭和30年代になりそれは加速する。


実は私が本ブログを始めようと考えるきっかけになったのが、『創られた「日本の心」神話「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(以下「戦後大衆音楽史」)の中の「都会調流行歌」について述べた部分だった。


『戦後大衆音楽史』は次のように書く。


〈昭和30年代の歌謡スタイルとして重要な「都会調」について触れておきましょう。「田舎調」は、その同時期に形成された「都会調」との相補的な関係において人気を博していたからです〉


つまり、田舎調と都会調という両極的なテイストがあって、もう一方を否定する。例えば田舎調側から「やっぱり故郷はいい、都会は疲れる」といったような望郷の感性をテーマにする一方で、「都会は楽しい、田舎はさびしい」という田舎否定のテーマを対比させて、大衆へ相乗効果的にアピールした、という展開手法だろう。


 20年代に続いて、30年代の都会調流行歌でもジャズは重要な構成要素となった。


〈「都会調」スタイルは、昭和20年代後半になって、それまでもっぱら米軍キャンプで演奏されてきたジャズ系の音楽が一般の日本人に聴かれはじめたときに、その雰囲気を取り入れた日本語歌謡として生み出されました。

 フランク永井、松尾和子、和田弘とマヒナスターズなどは、元々米軍キャンプで活動していた音楽家で、占領終結後はナイトクラブでも活動していました。「都会調流行歌」とは、基本的にジャズやラテンなどの洋楽が演奏される高級ナイトクラブで歌われても違和感雄ない、洋風の日本語歌謡であるといえます〉


 フランク永井と松尾和子はジャズシンガー、マヒナスターズはハワイアンバンドである。


〈《有楽町で逢いましょう》(フランク永井)、《再会》(松尾和子)、《誰よりも君を愛す》(松尾和子とマヒナスターズ)、《東京ナイトクラブ》(フランク永井と松尾和子)などを典型とする「都会調流行歌」は、ビクター専属の作曲家・吉田正の発明といえます。

 音楽的な特徴としては、ゆっくりとスウィングするリズム、和声の進行感がはっきりとした西洋的七音階の哀愁漂う旋律、サックスやスチールギターによる前奏と間奏、コーラスの甘い響き、きらびやかな東京のナイトライフとそこで繰り広げられる男女の恋愛を描いた歌詞、などが挙げられます〉


 聴いたことがある人も、これから聴く人も納得してくれるだろう。描かれているのは都会に暮らしている人々のソフィスティケートされたライフスタイルで、実際にそのような暮らし方をしていた人はごく一部だったろう。庶民にとっては憧れの世界、ファンタジーの世界だったと思われる。


 スタートは昭和32年(1957年)発売の『東京午前三時』(歌・フランク永井、作詞・佐伯孝夫)だ。以下、フランク永井初の大ヒット『有楽町で逢いましょう』(昭和33年/1958年)、フランク永井と松尾和子のデュエット『東京ナイトクラブ』(昭和34年/1959年)、松尾和子『再会』(昭和35年/1960年)まではいずれも佐伯孝夫・吉田正コンビだ。


松尾和子とマヒナスターズの『誰よりも君を愛す』(昭和35年)は作詞が川内康範に変わった。


 私は昭和33年(1958年)生まれだから、『東京午前三時』の翌年に生まれた。前回紹介した映画『嵐を呼ぶ男』は33年の正月映画としてヒットした。奇妙な符合だがこうした新しい流行歌が生まれた時代に私は生を受けたことになる。そこに何の因果関係もないことは分かっているが、若い両親のもと、こうした新しい流行歌は私の周辺に満ち溢れていたと想像したい。なによりも父親はジャズ好き、母親は元ダンスホール好きだった。田舎調の流行歌を好むとも思えない。


 私が出生地は神奈川県逗子市、母親の実家の近くだが、実際に生まれたのは隣の鎌倉市の産院だったらしい。母親は横浜高島屋のデパートガールの仕事を出産の間だけ休み仕事に復帰した。不器用な父親は自分に合った仕事がなかなか見つからず、私が23歳の頃は新聞配達でなんとか凌いでいた。


 1950年代後半から60年代前半に逗子には「逗子日活」と「逗子東映」という大手映画会社の系列映画館があった。新聞配達という仕事柄、昼間は暇を持て余す父親は、逗子日活に頻繁に“しけこんだ”。幼児の私を連れてだ。後年よく聞かされた話で「映画を観ていたら、横にいるはずのお前がいなくなったんだ。暗い館内を必死に探したら、最前列の席で寝ていたよ」。もしかしたら、石原裕次郎や小林旭、宍戸錠、浅丘ルリ子などが繰り広げる“無国籍”映画が幼児教育だったのかもしれない。


『銀座の恋の物語』(作詞・大高ひさお、作曲・鏑木創)は昭和36年(1961年)に発売された石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲。昭和37年(1962年)にこの曲を主題歌にした日活映画が公開されたということから、幼児の私も観ていたかもしれない。なお、先述の『東京ナイトクラブ』とかなり近いテイストであることは間違いない。


 この他、私がジャズがベースとなっているのではないか、または演奏がジャズである楽曲ではないかと考えているものは次のようなものだ。


【ウナ・セラ・ディ東京】

前回、『嵐を呼ぶ男』でジャズを演奏したバンドの1つが「渡辺晋とシックス・ジョーズ」であり、その渡辺晋が「渡辺プロダクション」を立ち上げてクレージーキャッツを人気バンドに変貌させたと書いた。その出自から渡辺プロは洋楽志向の芸能プロダクションであり、最初に見出した歌手は「ザ・ピーナッツ」(昭和33年/1958年デビュー)で、洋楽のカバーとともにオリジナル曲も多数出している。オリジナル曲のほとんどを手掛けたのが作曲家の宮川泰。その中で最もジャジーな一曲が、昭和39年(1964年)に発売した『ウナ・セラ・ディ東京』(作詞・岩谷時子)だ。


【作曲家・中村八大】

同じくジャズメンがポップス界に転身した例が「中村八大」だ。前々回に紹介した通り、昭和28年(1953年)に結成されたクインテット「ビッグフォア」は日本初の大人気ジャズバンドとなり、日本人バンドによるジャズブームを牽引することとなった。しかし昭和30年代に入るとジャズブームは衰退し、メンバーのピアニスト、中村八大はポップスの世界に活路を見出した。


作曲家として初めてその存在感を世の中に知らしめたのは、ジャズメンならではの緻密な音楽理論と技術で作った『黒い花びら』と『黄昏のビギン』(ともに昭和34年/1959年発売、作詞・永六輔、歌・水原弘)だった。その4年後、昭和38年/1963年に発売した坂本九の『上を向いて歩こう』(作詞・永六輔)はご存じの通り、日本のポップスで唯一、アメリカのビルボードNo.1に上りつめた曲として歴史にその名を残している。この曲は日本独特のヨナ抜き音階を用いながら、リズムはジャズ風にスウィングするという日本と西洋の音楽の優れた部分を融合している一曲だ。


【歌手・西田佐知子】

ここまで紹介してきた昭和30年代の「都会調流行歌」のほとんどは、都会の華やかな面を謳歌する内容だが、一方、当時の日本が抱えるやるせない気分を表現したのが、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』(昭和35年/1960年、作詞・水木かおる、作曲・藤原秀行)だ。1960年は日米安保条約締結が決する年で、反対闘争が行われたが結果的に反対派は敗北した。その厭世観を表現したことで日本人の気持ちに寄り添ったことが、ヒットに結びついたとされている。ブルージーな雰囲気で「死」という言葉も扱うことが当時としては画期的な楽曲だった。西田佐知子の乾いてけだるくビブラートのない突き放したような歌い方が効果的だ。


昭和39年(1964年)発売の『東京ブルース』(同)は、昭和10年代から連綿と続く和製ブルースの1つだが、西田佐知子のブルージーな歌唱がそれまでのブルースものと一線を画している。


〈「都会調流行歌」は、やがて「ムード歌謡」として「演歌」形成期にはその「夜の巷」のイメージの源泉となっていくのですが、成立の時点では「バタくさい」ものであったのです〉と『戦後大衆音楽史』と書く。それは昭和40年代に入ってからの日本の流行歌の歴史だ。次回に紹介する。


〈第15回・了〉


参考文献:

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史(輪島裕介、光文社新書、20101020日第一刷発行)




by toshi58asahi | 2021-11-20 17:50 | Comments(0)