2025年 02月 17日
第20回●新シリーズ「渡辺貞夫と山下洋輔」
♪♪♪
この『日本人にとってのジャズ』、とりあえずの最終回(19回目)を更新したのが2021年12月17日だから、4年ぶりの更新である。
今回から新シリーズとして、日本のジャズ界の巨人の2人について紹介しようと思う。
渡辺貞夫、アルトサックス、1933年2月1日、栃木県宇都宮市出身。2025年2月17日現在、92歳。
山下洋輔、ピアノ、1942年2月26日、東京都出身。もうすぐ83歳。
最初に筆者、アサヒの2人とのファーストコンタクトについて簡単に述べよう。
渡辺貞夫との出会いは高校時代から愛聴していたFM東京の深夜番組『マイ・ディア・ライフ』だ。だから1973年頃だと思う。残念ながら、今まで渡辺貞夫を生で聴く機会はなかった。
一方、山下洋輔も1973年の年末頃だと思う。記憶には定かでないがコンサートで初めて、「フリージャズ」というものを聴いた。理解の範疇を超えていた。ただ、渡辺貞夫と異なり、現在まで何度も山下洋輔のフリージャズを聴いてきた、いや、体感してきた。
山下洋輔は自らのジャズを戦いに模している。ステージはプロレスやボクシングのステージ。共演者と音楽を通して戦いというコミュニケーションでジャズを作り上げていく。
だから、ライブならその音楽の魅力を最大限楽しむことができる。
実は山下洋輔のCDを購入したことがあったが、ほとんど聴かないまま中古CD・レコード店に売却してしまった。本音を言えば、愛聴するジャズではなかった。山下洋輔の音楽のみならずフリージャズ全体に対しての感想だ。
それに対して、渡辺貞夫のレコードは今でも愛聴している。
今回、この文章を書くために日本のジャズに関する書籍で、渡辺貞夫と山下洋輔、またはフュージョンとフリージャズについて調べた結果分かったのは、渡辺貞夫とフュージョンに関しての記載がほとんどなかったこと、一方で山下洋輔とフリージャズに関しては比較にならないほど記載が豊富であることだった。
アサヒも山下洋輔の著書は数冊所蔵している。何度ともなくあった、溜まりに溜まった書籍の処分に際しても、山下洋輔の本は手放すことができないほど、未だにおりおり愛読している。
2人のジャズのアプローチに仕方は全く違う。ひとことで言うなら、渡辺貞夫は言葉ではなく演奏で自らを表現し続け、山下洋輔は難解なフリージャズを言葉による説明で補完するという表現方法を取り続けている。山下洋輔の文章は山下洋輔の演奏そのまま、過激なフリーフォームジャズである。
アサヒは渡辺貞夫のレコードを愛聴し、山下洋輔の著書を愛読する。2人の日本のジャズの巨人たちとのつきあい方だ。
渡辺貞夫と山下洋輔が牽引しなければ日本のジャズは衰退していただろう。2人の日本のジャズに対する影響力および貢献度は計り知れない。陳腐な表現だが、渡辺貞夫と山下洋輔は日本のジャズを牽引する強大なパワーを持つ両輪なのだ。
この両巨人について、様々な書籍資料などを使って、これから紹介していく。まずは渡辺貞夫編だ。
♪♪♪
【渡辺貞夫編】1970年代のFMラジオで「フュージョン」と出会った
アサヒが高校時代から毎週欠かさず聴いていたのが、日曜真夜中12時から始まるFM東京(現・東京エフエム)の『マイ・ディア・ライフ』だった。1972年8月6日に放送を開始した渡辺貞夫のライブ演奏番組だ。これを聞きながら眠りに入るのが習慣だった。
同じFM東京の深夜番組で欠かさず聴いていたのが『FM25時 きまぐれ飛行船~野生時代~』(月曜日深夜1時~3時)。語る人々は小説家の片岡義男とジャズシンガーの安田南だった。出だしから渡辺貞夫とは関係ない話に脱線するが、当時、アサヒが聴いていたFMラジオの雰囲気を紹介したいと思う。
関川夏央のエッセイ『夏目さんちの黒いネコ』(小学館、2013年10月15日初版第1刷発行)で次のように紹介されている。
〈安田南と西岡恭蔵の「プカプカ」
(前略)
「あン娘」のモデルは、ジャズ歌手の安田南だと聞いて、びっくりした。
安田南はジャズ・ボーカリストで、高校生のときから天才といわれた。俳優座養成所に入ったが、ジャズ歌手専業に転じた。一九六六年、自由劇場の旗揚げ公演で歌って観客をさらった。
七〇年、「演劇センター68/70」の音楽公演「翼を燃やす天使たちの舞踏」に西岡恭蔵もベーシストとして出演。このとき五歳上の安田南を知った。
缶入りピース一日百本というヘビーなタバコ好きで酒飲みだった彼女をモデルに「プカプカ」をつくって、西岡が自分で歌った。野太いよい声だった。安田南が、男好きでトランプ占い好きだったかどうかはわからない。
「プカプカ」は名曲として多くの歌手がカバーしたが、安田南自身は歌わなかった。俳優養成所の上級生だった原田芳雄が、のちに自分の代表曲とした。
ライブで安田南を聞いた人はみな、あざやかに空間を切り裂く声と歌い方に驚き、魅了された。それは「洒落た都会的なジャズ」ではなかった。「生き方」そのものののように、挑戦的で美しいジャズだった。
七四年の暮れ、私は安田南に会ったことがある。
六本木の「ハンバーガー・イン」でインタビューして短い記事を書いた。ショートヘアの三十一歳の彼女に天才気取りはなかった。始終タバコをすっていた。そのあと、道をへだてたライブハウスで歌う彼女の写真を撮った。そのモノクロ写真を彼女は気に入ったらしく、紙焼きが欲しいとハガキでいってきた。
その年から彼女は、FM東京の深夜番組「きまぐれ飛行船」に片岡義男と出演していた。音楽だけではなく、古いオートバイ、たとえばカワサキ250メグロSGの吸気音とエンジン音を流したりもする番組だった。
片岡義男の話しぶりは「脱力系」で、全然騒がしくなく、知識自慢もしなかった。機知あるよい相手役だった安田南は、番組のラスト、月曜日午前三時に毎回「眠れ眠れ、悪い子たち」とささやいた。
七八年のある夜、彼女は番組で愛猫が死んだといって泣いた。号泣といってもよい状態だったが、片岡義男は慰めたりせず、淡々と受けとめた。
そのあとしばらくして、安田南は「気まぐれ飛行船」を降りた。というより、連絡がつかなくなった。ジャズ・シーンからも姿を消した彼女は、やがて「伝説のジャズシンガー」となった。〉
AMラジオの深夜放送とは異なる落ち着いた大人の雰囲気に生意気盛りの高校生は惹かれた。安田南はある意味、真夜中のアイドルだった。安田南については当ブログ第18回『昭和40年代、日本の新しいポップス系音楽の担い手が次々登場。そして今』で触れている。
今もyoutubeで安田南の歌声を聴くことができる。「気まぐれ飛行船」も「マイ・ディア・ライフ」も聞ける。今のお笑いタレントに依存しているラジオに比べるとなんと“大人”なんだろうと溜息が出る。
♪♪♪
高校生のアサヒにとってモダンジャズは、あまりにも“大人”の音楽だった。ビバップやハードバック、クールジャズ、ウエストコーストジャズ、ファンキージャズ、フリージャズの違いがあること知らなかったし、考えたこともなかった。単に、知的な音楽に興味を持つ自分ってカッコいいかもしれない、というレベルだった。
そうした高校生が前述のFMの2つの番組を聴き始めたのも、そういう意識だったと思う。渡辺貞夫の音楽との出会いは、そんな頼りないものだった。
本格的に渡辺貞夫を聴き始めたのは高校3年生の頃だったと思う。渡辺貞夫が、この後に主力とするようになるフュージョン・ミュージックを盛んに演奏するようになってからだと記憶する。
そして、1977年に出した渡辺貞夫初のフュージョンアルバム『マイ・ディア・ライフ』を聴き、この後、毎年のようにリリースする『カリフォルニア・シャワー/渡辺貞夫』(1978年)、『モーニング・アイランド/渡辺貞夫』(1979年)、『ナイス・ショット!/渡辺貞夫グレイテスト・ヒッツ』を購入。アルバムは全てカセットテープに録音して携帯型のカセットテーププレイヤーで外出時に聞いた。
アサヒは1983年(昭和58年)まで小さな旅行会社に勤めていて、退職するその年の早春に、生涯で唯一の海外添乗に行った。オーストリア・チロル地方のスキーツアーだったが、添乗にも音楽テープを持参した。前述の4枚の渡辺貞夫を収めたテープのほか、ビリージョエルのベスト盤、喜納昌吉の『祭 CELEBRATION』(名作『花』が入っている)だ。これらのテープは、25歳になったばかりの若僧が人生で唯一の海外添乗で感じるストレスを緩和してくれる“癒し”のツールだった。
〈第20回・了〉
参考文献:
『夏目さんちの黒いネコ』(関川夏央著。小学館、2013年10月15日初版第1刷発行)

