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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第24回●【山下洋輔編】1960年代半ば、山下洋輔を含む若手がジャズ界の前面に出る

実際に観に行ったのか、テレビで観たのか全く記憶にないが、アサヒは高校時代、東京・有楽町の日劇で演奏された山下洋輔トリオの『ミトコンドリア』を聴き、人生で初めてのフリージャズにびっくりした記憶がある。


調べてみると、19731223日&25日の有楽町日劇『ジーン・クルーパに捧げるジャズ・アット・ザ・日劇』で山下洋輔トリオが出ている。筆者が聴いたのはこれかもしれない。


 この件については『第9回「ジャズの魅力~アニタ・オデイ、金子晴美、山下洋輔との出会い~」』で触れている。


 びっくりしたし、その過激さに刺激を受けたが、音楽として共感することはなかった。高校生には山下洋輔の演奏するジャズを理解する力はなかった。


フリージャズの魅力を理解するようになったのは、フリージャズに“限りなく近い”後期のジョン・コルトレーンに接した1984年だった。


 詳しくは『第6回 私にとってのジャズ~1984年、ジョン・コルトレーン「至上の愛」』で次のように紹介した。


〈東京・上野の某ビル。1984年、私は26歳だった。前の年に旅行会社を辞めてスーパーマーケットの業界紙に転職していた。ビルは印刷会社の持ち物で工場も入っている。転職した会社とその親会社がそこに入居していた。


 私の仕事場は主に印刷会社の校正室だった。月2回の発行のため、ほとんどの時間を校正室での整理作業に費やしていた。そこで親しくなったのが親会社の整理担当記者でたぶん10歳近く年上だったろう。パイプを吸う姿が似合っていた。


 ある日、彼が1本のカセットテープを私に差し出し、「おぬし、これを聞いてみたらどう?」と言った。その人は「おぬし」言葉を使う人だったが、それは違和感がなかった。そういう時代だったのかもしれない。


 なぜ私にくれたのか分からないし記憶にない。30分テープに録音されていたのは、ジョン・コルトレーン『至上の愛(ア・ラブ・シュープリーム)』、ソニー・ロリンズ『ブリッジ』(サックス奏者。コルトレーンとともにモダンジャズを発展させたミュージシャンの1人)、アート・ブレーキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ『モーニン』(これまで何回も紹介した楽曲)、バド・パウエル『ウン・ポコ・ロコ』(バド・パウエルはピアニストでチャーリー・パーカーとともにビバップを創始したミュージシャンの1人)。ただ、今から想像してみると、私が渡辺貞夫をよく聴いていると話したことに対する反応だったのではないかと思う。後の回で説明する予定だが、1960年代に入り日本では知識層にビバップ、ハードバップ、フリージャズなどを好む人々が増えてきた。その中心にいたのが学生運動の活動家およびそのシンパである。


(中略)


ところが彼がくれたテープに入っていたコルトレーンの『至上の愛』(1965年)を聴いたとたん、モダンジャズは私にとってかけがえのない音楽となった。すぐにコルトレーンのレコードを集めた。『インプレッション』(1961年)、『ジャイアント・ステップス』(1960年)などだ。縦横無尽の即興演奏、激しく疾走する音の塊、複雑極まるコードチェンジの連続、多用される不協和音、聴き手を蹂躙するリズム、それらが力を合わせて高みに昇っていく。音楽でカタルシスを感じる初めての経験だった。だから、今こうしてモダンジャズについて語っている。〉


先鋭的なジャズの巨人、ジョン・コルトレーンはフリージャズの進化に多大な貢献を行い、1967年の死去に近づくにつれ、完全にフリージャズの演奏者となっていた。


♪♪♪


 アサヒは1995年から昨年2024年までの29年間、東京・高円寺に住んでいた。西隣の町、阿佐ヶ谷では毎年10月に「阿佐ヶ谷ジャズストリート」を開催するが、毎年それに参加しているのが山下洋輔で、ステージは神明宮の神楽殿である。ソロ、またはフルートとのデュオで白熱したフリージャズを演奏したのを観た。観客の中から「洋輔ちゃん!」という中年女性の掛け声が響く。親類が応援に来ているようだ。山下は阿佐ヶ谷のヒーローなのだ。


 山下洋輔は自らのジャズを戦いに模している。ステージはプロレスやボクシングのステージ。共演者と音楽を通して戦いというコミュニケーションでジャズを作り上げていく。


 だから、ライブならその音楽の魅力を最大限楽しむことができる。


 実は山下洋輔のCDを購入したことがあったが、ほとんど聴かないまま中古CD・レコード店に売却してしまった。本音を言えば、愛聴するジャズではなかった。山下洋輔の音楽のみならずフリージャズ全体に対しての感想だ。


筆者にとっての山下洋輔は音楽自体よりも、ジャズピアニストとしての様々な活動を踏まえたエッセイの優れた書き手という存在だった。


 日本きってのフリージャズの第一人者である山下であるが、筆者はフリージャズへのめり込むことはなかった。


♪♪♪


21回「【渡辺貞夫編】モダンジャズの革新「ビバップ」を一身に受けて戦後を駆け抜けた」で述べた通り、1960年代半ば、日本のジャズ界の中心となったのが渡辺貞夫だった。『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(村井康司著、シンコーミュージック・エンターテイメント、2017106日初版発行)ではその状況を次のように紹介している。


〈ビバップ世代の渡辺貞夫の動向も忘れてはなりません。既に日本のトップ。プレイヤーとしての地位を確立していた渡辺貞夫は、62年にアメリカへ渡り、ボストンのバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に入学します。当然のことですが、渡辺は学生のレヴェルをはるかに超えていました。(中略)彼がアメリカ生活を切り上げて帰国したのは6511月のこと。その直後から、渡辺貞夫は八面六臂の精力的な活動を開始し、日本ジャズの指導的存在となりました。若手メンバーを登用してのグループ活動、ポップスやロック、ボサノヴァをレパートリーとしてのファン拡大、バークリーで学んだ音楽理論をミュージシャンに教える教室の開設、クラブ出演に際してのギャラの交渉など、この時期の渡辺貞夫の活躍によって、日本のジャズはあらゆる点でレヴェル・アップしたと言っても過言ではありません。〉


 そして、渡辺貞夫の影響を受け、若手がジャズ界の前面に出てくる。


〈渡辺貞夫がジャズ・シーンの中心に位置するようになった66年以降、当時20代だった若手ジャズメンが次々台頭してきます。その筆頭は白木秀雄クインテットのメンバーだった日野皓正です。彼は67年に初リーダー作『アローン・アローン・アンド・アローン』を発表、68年には菊池雅章と双頭バンドを結成し、若者のアイドルとなりました。山下洋輔は武田和命(サックス)、富樫雅彦(ドラムス)らとのカルテットを経てトリオを結成、(中略)、67年秋に病を得て一時休養し、69年に復活すると山下洋輔トリオ(サックス中村誠一、ドラムス森山威男)を結成、爆発的なパワーのフリー・ジャズでジャズ・シーンを震撼させました。山下洋輔とほぼ同年代で、バークリー留学組の佐藤允彦(ピアノ)は荒川康男(ベース)、富樫雅彦とトリオを結成、同時代のチック・コリアを思わせるクールでシャープなサウンドを聴かせました。佐藤はそののちに富樫を組んでフリー・ジャズを演奏するのですが、それは山下トリオの熱狂とは正反対の「幽玄」を思わせるサウンドのもの。


(中略)


 渡辺貞夫、日野皓正、山下洋輔、佐藤允彦。ここに名前を挙げたミュージシャンたちは、(中略)現在でもばりばりの現役であり、才能ある若手を鍛え上げつつ、常に新しい試みにチャレンジしている「永遠の若手」でもあります。今の日本のジャズは、彼らによって創られたのだということを、僕は改めて感じています。〉


 ここに山下洋輔の名前が出てくる。


 日本のジャズ状況を見た渡辺貞夫が著書で辛口のコメントを述べているのは第22回『【渡辺貞夫編】本場アメリカを知り日本のジャズに飽き足らなかった』で紹介した通りだ。『ぼく自身のためのジャズ』(渡辺貞夫著、岩浪洋三編。徳間文庫。1985515日初版。196911月荒地出版社より刊行)で気持ちを吐露している。要約すると――


〈前衛ものをやろうとしているのだが、それは「らしきもの」であってなにも訴えるものがないという感じだった。テクニックに頼っていてもそれがまた完全でないので、スイングしないのである。スイングしなければジャズでないといえるかもしれないし、また、スイングしなくてもジャズであるといえるかもしれないが、とにかく根底になにかスイングにしろ何にしろ核になるものがないのである。つまりなにをやろうとしているかわからないということだ。〉


〈その原因はなにかと考えてみると、リズム・セクションの練習ができていないということもあろうし、けっきょく、ベーシックなリズムといおうか、フォー・ビートならフォー・ビートのスイングというものを日本のミュージシャンは忘れてしまっているような気がしたのだった。なにか、変にフリー・ジャズ風なのだが、それがチグハグなのだ。〉


 山下洋輔と相倉久人の対談『ジャズの証言』(新潮新書、2017520日発行)の山下洋輔の発言によると、山下洋輔は渡辺貞夫のバンドに誘われたという記述がある。


〈山下 そのころぼくは、ポールという日系二世のドラマーと米軍基地での仕事もしていました。貞夫さんが「一緒にバンドをやらないか」と声をかけてくれたので、ポールに「貞夫さんとやるのでやめさせてくれ」と頼んだ記憶があります。のちに富樫とベースの原田政長とのカルテットになりました。


(中略)


相倉 渡辺貞夫カルテット結成は一九六六年三月。それからたった二カ月で、山下さんが富樫と口論して脱退(笑)。


山下 レヴェルの高いバンドでした。ボサノヴァばりばり。ボサノヴァのコードワークなんてほとんどビル・エヴァンスで、それが全部譜面に書いてあった。譜面を書いたのはもちろん貞夫さんです。これが難しかった(笑)。


(中略)


山下 それにしても貞夫さんは、本当によくぼくを選んでくれました。未熟者と分かっていたでしょうが、鍛えれば何とかなると思ってくださったんでしょうね。〉


渡辺貞夫の日本の若いジャズメンへの不満、渡辺貞夫のバンドを2カ月で辞めてしまった「未熟者」の山下洋輔。何らかの相関関係があったのかもしれないことは、第22回で述べた。


〈第24回・了〉


参考文献:

1)『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(村井康司著、シンコーミュージック・エンターテイメント、2017106日初版発行)


2)『ぼく自身のためのジャズ』渡辺貞夫著、岩浪洋三編。徳間文庫。1985515日初版。196911月荒地出版社より刊行)

 


by toshi58asahi | 2025-04-13 07:48 | Comments(0)