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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第49回『ジャズへのアプローチは無限にある「ジャズと麻薬と小説と」』

今回から始める短期シリーズ「ジャズへのアプローチは無限にある」。なぜ始めるかというと、小難しいとか理屈っぽいとかハードルが高いというようなジャズへの“偏見”を少しでもなくしてもらいたいからだ。


とはいえ、そうした偏見を受けるのも仕方がない。確かにジャズという音楽は、というよりジャズの熱狂的ファンとかマニアはそうした者たちが多い。アサヒもその1人だ。


だからといって、ハードルを下げて聴いてもらっても、所詮は“ジャズっぽい”音楽にちょっと触れてもらうだけで終わりそうな気がする。もちろん、そうしたことをきっかけにジャズの深みにはまってくれる人もいるだろうが、下げたハードルから入ってもらうのと違う“招き方”もあると思う。


それは、ちょっと変化球な招き方だ。例えば、かつてジャズは麻薬とともにあった、かつてジャズは革命幻想の象徴的存在だった、映画音楽の中のジャズ、ノーベル賞受賞が待たれる小説家とジャズ、ジャズを語る人の今と昔、ポピュラー音楽の中のジャズ、等々の変化球的アプローチでジャズに興味を持ってもらおうという試みだ。


良かったら読んでみてください。アサヒ


第49回『ジャズへのアプローチは無限にある「ジャズと麻薬と小説と」』_d0401639_16372593.jpg


『ファンキー・ジャンプ』(『殺人教室』に収録)

石原慎太郎著。角川文庫。昭和37年4月15日初版発行、昭和48年3月30日15刷発行


 初回から“麻薬=ヤク”の話で恐縮です。だが、昭和20年代から30年代は、ジャズとヤクは切っても切れない関係だったらしく、後でも紹介するが、ジャズメンは社会の良識者から犯罪者のごとく嫌われていたという事実がある。この小説はその時代を切り取った画期的な作品だった。


しかし、あのガリガリの保守反動の昭和のおやじ、故・石原慎太郎も若い頃は、こうだったんだなあ、と慨嘆する小説だ。なにしろ、麻薬中毒者、ジャンキーであるジャズメン(ピアニスト)がヘロインの血管注入で“キメた”あげくの演奏が、ほら、こんなに凄いんだぜ、という内容なのだ。


さすが、昭和30年代初め、『太陽の季節』で芥川賞を受賞し、日本社会に大騒動と大流行を巻き起こした小説家の“尖がった”小説だ。ちょっと長いが引用する。


〈そのヘロが切れている。俺の前に厚い灰色の壁がある この息苦しさはなんだ


汗 眼を引き裂いて流れ 流れ落ちる汗


エンディングまでもつか もつまい いや、もたせよう


(中略) 


タッグのコーラスにかけて彼等の演奏はビートに拍車し、見当のつかぬ、眼に見えぬ何かに向かって憑かれたようまっしぐらにブローしながら進んでいった。


 敏夫は背を曲げピアノに張りつき、彼はすでにピアノの一部分だった。


 曲が終ると拍手の前に巻くが下りた。客は結局その回に演奏された曲の名を聞かなかった訳だ。


 小休止に立ち上がる客が殆どいない。が、タツノは立って楽屋裏へ走った。


 敏夫はピアノに張りついたまま動かなかった。が、息をつこうとする度ぜいぜい音をたてて胸が鳴った。


 村上がかけより、竹田と両側から腕をとる。引き起こされた敏夫の体は意外な程軽かった。されながら彼はぼんやり周りを眺める。


 袖に運ばれた長椅子にぼろくずのように小さく彼は崩れて置かれた。顔中を伝う汗を、もう拭きさえもしない。


「これ以上無理だ。こんな体で来るなんて気違い沙汰だ」


「けど、今日は凄い」


 上ずった声で島が言う。


「今までのいつよりも、奴のファンキーは凄い。俺達は夢中で受けた」


「しかし、もうどうにもならんだろう」


(中略)


「ヘロをくれよ」


 彼は言った。


 島は頷き、仲間に眼で言う。辺りの人を遠ざけた。敏夫の譜入れに粉と注射器があった。


 汲んできたコップの水に粉をといた。注射器に吸い上げカフスを外してまくり上げた二の腕へ島が刺した。


 あえぎを戻しながら、「もう一本」うつろな声で彼は言った。


 頷いて島は射った。


 そのまま彼は静かになった。額の汗がひいていく。


「楽になったか」覗き込み、揺さぶるようにして森が訊く。彼は遠い表情で頷いた。


「どれぐらい、どれぐらいもつ?」


 ゆっくり頭を振り、「来る前に、三本射ったが――」


(中略)


「プレイは凄えが見ててただごとじゃない」


「これで」


 村上は射つ真似でいった。


「それがどうした。常習だろう」


「もうそれも効かないんだ。医者に訊いたら、薬と酒のせいでここが非道く――」心臓を押える。〉


ウィキペディアで「ファンキー・ジャンプ」を検索したところ、以下のような内容の紹介があった。


 この小説の初出は1959年(昭和34年)に文学雑誌『文學界』8月号に掲載され、同年12月に新潮社から刊行された短編集の単行本『殺人教室』に収録された。あらすじとしては、アート・ブレイキーやディジー・ガレスピも絶賛する(もちろん小説上の話)天才ジャズピアニスト、松木敏夫は重度のヘロイン中毒で、恋人を殺した直後にコンサートで演奏する。ヘロイン中毒による幻覚の中で行った演奏を共演のジャズメンたちは驚喜するが、壮絶な演奏の果て、松木は死亡する。


 ここに大きな間違いがある。ドラッグはけっして「プレイは凄え」ことにはしない。これは洋の東西を問わず共通認識だ。ヤクをキメたからって凄えプレイはできないのだ。石原はそうした幻想をどこで聞きかじったのだろうか。


 アサヒが『ファンキー・ジャンプ』を読んだのは高校1年生だったらしい、といってもはっきりした記憶はない。持っている文庫本『殺人教室』(角川文庫)の奥付には昭和4833015版発行とあり、初版は昭和37415日発行とある。


そのあとがきにはこのような記述がある。


〈「ファンキー・ジャンプ」はパリ、サンジェルマンのクリュブ・ド・サンジェルマンで聴いた、というより見たホレスシルヴァーのナーコティックな演奏のイマージュから生れた作品で、タイトルは後日、日本で大流行となったファンキーなる言葉の始祖みたいな形となった。〉


 よく分からない文章だ。ただ、ホレス・シルヴァーの演奏を聴いたことから生れた作品というくだりに注目だ。ホレス・シルヴァーは「ファンキー・ジャズ」のレジェンドの1人で、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのピアニスト。それを聴いて1959年(昭和34年)の『文學界』8月号に執筆したわけだ。


 ファンキー・ジャズが日本で大人気になったのが、1961年(昭和36年)1月のジャズ・メッセンジャーズの初来日。それまで“地下”に潜んでいたモダンジャズが一気に“地上”に躍り出た瞬間だった。だから石原は「後日、日本で大流行となったファンキーなる言葉の始祖みたいな形」と自慢するわけだ。


 前述のウィキペディアに書かれている解釈には、この小説は石原の作品の中で比較的高く評価されているもので、主人公・松木敏夫のモデルは1955年(昭和30年)に自殺したジャズピアニストの守安祥太郎だとされ、石原は守安にチャーリー・パーカーを重ねて松木を造型したという説があるそうだ。


 確かにモダンジャズの創始者の1人であるチャーリー・パーカーはヘロインと酒で死んだ。そのほかの有名ジャズメンの多くもヘロインなどの麻薬と近い関係にあったという。


「守安祥太郎」


 当ブログの「第21回【渡辺貞夫編】モダンジャズの革新『ビバップ』を一身に受けて戦後を駆け抜けた」で名前が出ている。『ジャズ喫茶リアル・ストーリー』(後藤雅洋著。河出書房新社。2008年12月20日初版印刷)の文章の中にだ。


〈どうやら『モカンボ・ジャズ・セッション』というのが戦後ジャズ史のメルクマール的出来事らしい。これは1954727日深夜から翌朝にかけて横浜伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で行われたジャム・セッションで、伝説のピアニスト、守安祥太郎が参加したことで有名だ。幸い、この時の模様がロックウェル・レコードの岩味潔氏によって録音されており、後にポリドール・レコードから『幻の“モカンボ・セッション’54』として発売されている。これを聞いてみると演奏のレベルはかなり高く、ようやくアメリカの水準に近づいたという印象を持つ。


(中略)


 日本に初めて本格的な戦後のジャズ、ビ・バップを紹介したのは、天才ピアニストといわれた守安祥太郎という人なのだが、彼の優れた評伝である『そして、風が走りぬけていった』(植田紗加栄著、講談社刊)のジャズ喫茶についての記述を見てみよう。


(中略)


 当時はジャズの楽譜などなく、新しいジャズ、ビ・バップの構造を知るには、レコードから採譜するしか方法がなかった。守安の天才的な耳は、複雑極まりないパーカーやパウエルの演奏を実に正確にレコードからコピーしたという記述もある。〉


 一方で天才ジャズピアニストは「ヒロポン」中毒者であった。先の指摘によれば、「主人公・松木敏夫のモデルは1955年(昭和30年)に自殺したジャズピアニストの守安祥太郎だとされ、石原は守安にチャーリー・パーカーを重ねて松木を造型したという説」もあるそうだが、チャーリー・パーカーがヘロイン中毒だったことで、石原は守安をモデルにした主人公・松木をヘロイン中毒者としたのだろうが、実際はヒロポン中毒だったらしい。


 webサイト『Jazz LifeStyle』「みんなクスリが好きだった―日本のジャズとドラッグ【ヒップの誕生―ジャズ・横浜・1948―】Vol.9」に以下の記述がある。


〈日本にヘロインが本格的に密輸されるようになったのは、終戦から15年が経った1960年頃からだった。62年には国内でヘロイン中毒と診断された人は2500人に上ったという。輸入の入口となったのは国際貿易港であった横浜と神戸である。それ以前にも、駐留していた米軍兵士が持ち込んだヘロインはあったが、それを使っていたのはもっぱらアメリカ人であり、日本が使用していたドラッグは主にヒロポンであった。


 モカンボ・セッションの楽屋には、梱包されたヒロポンがどっさりあったという証言がある。セッションの世話役の一人であったハナ肇の「俺はヒロポンを仕入れて2階に置き、打ちたいやつには打たせてたなぁ」というコメントは以前にも紹介した。


(中略)

日本で最初のビバップ・セッションが行われたといわれる渋谷・道玄坂の『フォリナーズ・クラブ』ではミュージシャンたちがごく当たり前のようにヒロポンを打っていた。自分のバンドを率いてその店に出演していたギタリストの澤田駿吾は、メンバーたちのヒロポン中毒を見かねて、都心から離れた場所で「クスリ抜き」のための合宿生活を行った。その澤田がその後結成したダブル・ビーツは守安祥太郎が最後に在籍したバンドだったが、バンド内では、「今夜何にする?」「シャブシャブ」だの、「ヒロポーン」「コカインなさーい」「大麻ー」(「ピンポーン」「おかえんなさーい」「ただいまー」)だのといったたわいもないドラッグ・ジョークが流行っていたと『そして、風が走りぬけて行った』には書かれている。『そして──』にはこんな一節がある。守安のヒロポンの打つレベルは、こんな具合だ。キンちゃんと愛称されるドラムの清水閏は、ヤク中毒で塀の中に入るほどだったから打ち慣れていて手際がよく、痛くない。守安は痛いのが大の苦手だったから、「キンちゃんじゃないと嫌だ」と駄々をこねるようにご指名した。〉


言うまでもなく、『そして、風が走りぬけて行った』は前述の『ジャズ喫茶リアル・ストーリー』内で引用された本だ。想像するに、石原は守安のこうしたシーンをどこかで見たか聞いたかしたのではないだろうか。


 ともあれ、あの、伝説的グループ、クレージーキャッツのリーダー、ハナ肇がヒロポンを仕入れて「打たせてたなぁ」とは、とんでもないコメントだ。


しかし、石原慎太郎の本を高校1年生のアサヒはなぜ買ったのか。想像もつかない。モダンジャズに興味を持っていたことから、どこかで“危ない麻薬小説”の噂を聞いて試しに買ってみたというところだろう。で、実際に読んでみたらどんな感想か、思い出せない。


 といっても、三浦半島の一隅で地道に生きている15歳のガキにとっては、とんでもない世界と思っただろうことだけは分かる。


「ジャズへのアプローチは無限にある」の第1回目はかつてジャズと限りない親和性を持っていた(かどうかは分からない)麻薬がテーマだった。どうだろう、ジャズに興味を持たれただろうか。


 こんな考え方もできる。ジャズを単なる音楽でなく、文学的視点で注目する。ヘロインは演奏者にどのように影響するのか、しないのか。それはむしろ悪影響なのか。そういうアプローチも面白いのではないか。


Commented by パンプキンポット at 2025-09-03 19:34
旭さんの筒井康隆風作品が読んでみたい
この歳からだってまだ遅くないと思います
Commented by Asahijazz at 2025-09-04 17:20
> パンプキンポットさん
ありがとうございます。

SFはトライしたことがありません。でも憧れがあります。筒井康隆氏はヒーローです。リアルな小説しか書いてきませんでしたが、考えてみます。じじいが暴れ回る玄冬小説。たとえば、矢作俊彦『傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを』のような。じじいになったオサムちゃんが暴れます。
by toshi58asahi | 2025-08-31 16:44 | Comments(2)