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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第58回「その後の『新宿スイング』」

【森山高校演劇部 第一章 金曜日】第一回 戻ってくるまで帰りません


※前回で短期シリーズ「ジャズへのアプローチは無限にある」は終了し、今回からは小説「その後の新宿スイング」をスタートします。2カ月半前にいったん終了した小説「新宿スイング」の続編です。昭和11年から39年経過した昭和50年に時代は移り、舞台は神奈川県、三浦半島の相模湾沿いの高校の演劇部と吹奏楽部です。正編との関係はおいおい分かります。時は昭和50年(1975年)6月20日、金曜日。


 玄関にある電話が鳴った。


「おい、鳴ってるぜ。出なくていいのかよ」。木下真吾が言った。


「ああ? 面倒くせえな」。倉谷良太はドアを開けて階段を下りた。


「はい、倉谷です」


 受話器の向こうからは何も聞こえない。しばらくして、溜め息とともに女の声が受話器から流れ出た。


「高山です。倉谷くん、何で家にいるのかな?」。同じ三年生で演劇部部長の高山洋子だった。


「ああ、えーっと、ちょっと腹が痛くてさ。部活、無理だなと思って…」


「へえ、そうなんだ。で、良くなった?」


「い、いや。いててて」


「演技が下手ね、倉谷くん」


「ん?」


「やっぱり練習が必要ね」と言うと、洋子はガラリと口調を変えて「ネタはあがってんだよ。観念しろ、良太」と凄んだ。


「へ?」


「裏門でバイクの後ろに乗ってたでしょ。黄色いヘルメットの下の顔がうれしそうだったって目撃した部員が報告してくれたのよ。お腹が痛くて部活を休んだ人とはとても思えないわね」


 誰だ、チクったのは。


「今、舌打ちしたでしょ。したいのはこっちの方よ。今から戻ってきなさい。倉谷くんが来るまで、私たち全員、帰らないで待ってるから。じゃあね」


 電話が切れた。こっちに何にも言わせないでさっさと。


 良太は二階に戻って、ベッドに体を投げ出した。


 壁に凭れて平凡パンチを食い入るように見ていた真吾は、股間の変化を隠すために体を捩りながら、「何だったんだ?」と聞いてきた。


「お稽古忘れてないかって演劇部の女部長から」


「サボりバレたんだ」と言って意地悪い顔で笑った。


「そうさ。だから、学校まで乗せてけ」


「やだね。バスっていう便利な交通手段があるだろ? 俺、帰るわ」


真吾は良太に平パンを投げつけて部屋を出ていった。しばらくして、エンジンを吹かす音が聞こえ遠ざかっていった。


 良太は溜め息を一つついて、学ランを羽織って部屋を出た。


◇◆


 良太の家は京浜急行の逗子海岸駅に近く、東隣の森山町唯一の高校、神奈川県立森山高等学校までは、駅前のバス停から三十分ぐらいだ。何の因果でこんな時間に登校しなくちゃならないんだと愚痴りながらも、バスは学校に近付いていった。


 演劇部と接触したのは二カ月ほど前。三年に進んだばかりの四月下旬だった。大学受験の勉強でも始めようか、でもまだいいだろう、などと良太は気楽に考えていた。そんな時、学校新聞の取材で知り合った洋子から照明を手伝ってほしいと頼まれた。五月連休明けに体育館で新一年生の歓迎公演を行うからと。


 照明は初めてだったが、ほんの手伝いだし暇だったから気楽に引き受けた。


 それが間違いの始まりだった。


 先週の金曜日。つまり、ちょうど一週間前の金曜日、下校するために廊下を歩いていると英語の教師で演劇部の顧問の山上元彦が、「おい倉谷、お前部費払ってないんだってな。早く払えよ」と声を掛けてきた。


「部費って何の?」


「演劇部だよ」


「誰が演劇部だって?」


「とぼけるな。お前だよ」


 知らないうちに良太は演劇部員になっていたらしい。


 すぐに演劇部の部室に飛んでいった。部室の窓はカーテンが閉じられている。ドアを開けようと思うが、突然開けたら悲鳴や罵声とともに何が飛んでくるかわからない。演劇部の部員は女子だけの宝塚歌劇状態。カーテンが閉まっているのは着替え中の合図だ。照明を手伝った時にこのルールは聞いていた。


 ドアを叩いて、「倉谷だ。開けていいか」と怒鳴った。反応がない。が、人の気配は感じる。


「いるんだろ? 開けろよ。山上から部費を払えって、何なんだよ。おい」。頭にきて乱暴にドアを叩き続けた。


 ドアが開いた。部長の洋子が顔を出し、他の何人かも洋子の後ろから顔をのぞかせた。


「壊れちゃうでしょ、ガンガン叩いたら。何? 真面目に部活動しに来たの? 私たち、もうすぐ着替えが終わるからちょっと待ってね」とドアを閉めようとした。


「ちょ、ちょっと待てよ」と言って閉まりかけの隙間に足を突っ込んだ。「何が部活動だよ。誰が演劇部員だよ。ふざけんなよ。俺は入部したつもりはないぜ」と怒鳴った。


 腿まで突っ込んだ良太の足を洋子は必死に押し返そうとするが、そうはいくか。


「とにかく俺は部員じゃないし、部費も払う気はない。言ったからな。帰るぞ」


 足を引っこ抜いて踵を返した。


「待ってよ!」洋子の声が追いかけてきた。「話だけ聞いてよ。ねっ、お願いだから」。


 振り返ると部員全員、十二個の顔がこっちを向いていた。みんな必死な表情をしている。騙されるなよ、相手は素人とはいえ役者だ。


「倉谷くん、ごめん。あなたが必要なの!」


 良太はそのままブリッジするんじゃないかと思うほど後ろに仰け反った。そして、周囲を素早く見回した。幸いに誰もいなかった。


 十七歳の今まで、良太は誰からもこんなセリフをぶつけられたことはなかった。ほとんどの人間はこんな経験はないだろう。


「あのさあ、そういう殺し文句は舞台の上なら人を感動させるかもしれないけど、俺に言っても効果ないと思うけどなあ」


 減らず口を返したが、それに反応する者はいない。


「とにかく話を聞いて! 部室じゃ狭いから、いつも発声練習をしている体育館の裏に来て」洋子が懇願した。


◆◇


 体育館の裏には元はりんごやらみかんが入っていた木箱がいくつも散乱している。八百屋をやっているPTAからのプレゼントらしい。演劇部の部員がそこに腰かけて休んだり、箱を使って演技の稽古をするためだと、良太は誰かに聞いたことがある。


 ちょうど人数分あるので、全員箱に腰を掛けて、良太と洋子が話し出すのを待っていた。洋子は良太の至近距離に腰を降ろして、俺が逃げ出さないように態勢を固めている。


「あのね。薫子がもしかしたら全日制をやめて定時制に移ることになるかもしれないの」と洋子は一人の部員に視線を移してうなずいた。


 良太もつられて薫子という女生徒を見た。女生徒は良太を真っ直ぐな視線で見て、「倉谷さんとは初めて話しますが、二年の荒井薫子と言います。よろしくお願いします」とはっきりした声で言った。


 髪を後ろで束ねた顔はちょっと大きめで、一重まぶたで鼻と口は小さめ。お世辞にも美形とは言えないが、なんとなく魅力がある顔だ。


「倉谷良太です、って知ってるか。今話題の中心の倉谷です」とおどけたが、全くウケなかった。


「で、荒井さんが定時制に移るかもしれないってのと、俺がいつの間にか演劇部員にされていたことと、どういう因果関係があるんだ?」。くそっ、煙草が吸いたくなった。良太は学ランの内ポケットの中の煙草を触った。


「十月十日の文化祭に演劇部が公演をやるの。永井路子の『北条政子』を原案に夫の源頼朝と妻の政子の夫婦の物語を描こうと思ってるの。『北条政子』読んだことある?」


「読んだことはないけど、原案て言うと台本を新たに書くってこと? 誰が…」


 相手にしちゃいけないことは分かっているが、好奇心が先行してしまうのが悪い癖だと良太は思った。


「私が書いてる」


「はあ? 君が?」


「そう。おかしい?」


「ことはないけど、永井路子の本て言ったらNHKの大河ドラマ級だろ、むずかしさは」


「確かにね。でもやるの。四カ月後には全生徒、全教員、父母たちに観せるの、絶対」。洋子は何かに憑かれたような顔で言った。


「それはきみたちの勝手だけど、俺が聞きたいのは…」


「だから、それをこれから説明するの。黙って聞いてほしい」


 仰せの通り、良太は黙った。


◆◇


 こういうことだった。薫子が定時制に移るのは二学期が終わってから。当然、演劇部は退部しなければならない。その前に薫子を主演にした舞台にしてあげたい。強い女である北条政子を演じてもらいたい。夫の頼朝との夫婦愛を描きたい。それが退部する薫子へのはなむけになる。


「オーケー。そこまでは理解した。で?」


「頼朝の役は本物の男じゃないとどうしてもだめなの」


 そういうことか。うちの演劇部は女しかいない。男役も女がやっている。


「どうしてだめなんだ? これまでそれでやってきたんじゃないか?」


 部員全員が合わせたように大きく溜め息をついた。薫子だけは下を向いて身じろぎもしない。


「もしかしたら、薫子はこれで舞台に立つのが最後になるかもしれない。思い出が女だけの舞台だけというのは悲し過ぎるわ」。洋子が言うと、「いいんです、高山先輩」と薫子が言った。


「倉谷さんにご迷惑です。それに私、主演なんてやっぱり無理です」と言って立ち上がって走り去った。それを何人かの部員が追いかけた。


 うーん、これは陳腐だぞ。昔、このような駄芝居をテレビで観たような覚えがある。


 白けた顔をしていると、それを見透かしたように洋子が、「その顔、信じてないね」と険しい表情で言った。


「いや。理解はした。信じもしている。だけど、何で俺なんだっていう根本的な疑問がある。さらに、俺は演劇などやったこともない。素人以下の素人だ。できるわけがない。十月十日と言えば、あと四カ月ないだろ。無理だよ、無理」と席、いや木箱を立とうとした。


「何で倉谷くんか」。洋子が言った。


「ん? ああ」。良太は再び木箱に腰を降ろした。


「何となく頼朝に似てるから」


「はい? 俺が似てる? そんなわけないだろ。いや、それだけで俺なのかよ」


 似てる似てると残った部員全員が大きくうなずく。


「もうひとつ、素人って言ったけど、四カ月あれば大丈夫。きちんと指導します。安心して」。何を安心するんだ?


「ということで、とりあえず考えてね。こっちとしたら倉谷くんがだめだったら、公演を中止するかもしれないんだから。ということで終わり」と部員たちに言ってから、俺に顔を寄せて小声で「後で家に電話する。その時、詳しい事情を説明する」と言った。


 良太もつられて小声で「番号知ってるのかよ」と言うと、「初美に聞いたわ」と言って「さあさあ、倉谷くんは帰るわ。私たちは発声練習を始めましょう。誰か、薫子たちを連れてきて」。


 とりあえず解放してくれるらしい。俺はさっさと教室に逃げ帰り、カバンを持って愛しい我が家へ帰るのみだ。


◆◇


「良太! 電話! 高山さんて人。早く出なさい」。母親の声が一階から聞こえた。


夕飯を食べて自分の部屋でレコードを聞いていた良太は、プレーヤーの針を上げてから下に降りていった。階段の下には受話器を手で覆った母親がイライラした表情で待ち受けていた。良太の顔を見るなり、よそ行きの声で「今、代わりますね」と受話器を良太に押し付けた。


「はい」


「あ、高山です」


「はい」


「無愛想ねえ。さっき話した詳しい事情を説明するわ」。単刀直入だな。


「薫子のうちっておばあ様と中学二年の妹、小学四年の弟の四人家族なのよ。五年前にご両親が交通事故で亡くなったの。ご両親の保険金も残っているけど、おばあ様はもうすぐ七十歳で仕事を引退しなければならないの。おばあ様は鎌倉の建設会社で経理の仕事をしているから、今までは定期収入はあったけど、辞めたら保険金の貯えと年金だけが頼りよね…でも、七十歳になるまで経理の仕事ってすごいわね、雇っていた会社も偉いけど…」。脱線し始めた。


 それに気が付いた洋子は、「それで話は戻るけど、薫子はおばあ様の代わりに働くことにしたの。これまでも学校が休みの時はできるだけいろんなバイトをして、家計を助けてきたけど、それじゃ足りないのよ…ねえ、聞いてる? 良太くん」。あ、とりあえず終わったか。


「ああ、聞いてるよ。つまり、それで定時制に移って昼間はフルに働きたいというわけだな。彼女を主役にして引退の花道を作ろうってことだろ? つまり、今度の公演は引退興行だな」


「なによ、引退興行って。まるで演歌歌手か大衆演劇みたいじゃない。でもまあそういうことなわけよ。それともう一つ…」と言って黙った。


「何だよ、黙るなよ」


「私のためでもあるのよ」


「はあ?」


「演劇部は秋の文化祭が終わると三年生の部長が引退して二年に引き継ぐことになっているの。だから私の役目も文化祭で終わり」


「そうらしいな」


「でね、私が入部して二年間ちょっと、ずっと女子だけなのよ。一度ぐらい本物の男子と演劇がしたい。分かる?」


 必死さが電話を通してヒシヒシと伝わってくる。


◆◇


「とりあえず事情は理解した。だけど、それにどうして俺が協力しなけりゃいけないんだ? 荒井さんだっけ? 彼女とは今日初めて話したぐらいだぜ。頼朝に似ているというのも理由としたらむりやりだ」


「だから…」


「まあ聞けよ。確かに俺は三月までやっていた新聞委員会の委員長は引退した。時間はある。だが、一応、大学に進学するつもりだから嫌だけど勉強もしなければならない。あの時は弾みで照明を手伝ったけど、あれは一時の気の迷いさ。本格的に演劇をやるなんて、これっぽっちも思ってないよ。確かに男がいないのは同情するけど、できない、やりたくないって言っているやつに無理強いするのはどうかな。そう思わない?」


 うちの高校の場合、学校新聞を作るのは部ではなく、学校の自治会組織のうちの新聞委員会が担当している。部の場合、部長や部員が引退するのは三年の二学期から三学期の間、委員会は二年の最後ということになっている。


 受話器の向こうで何かが唸っている。犬? 猫? もちろん洋子だ。反論を考えているらしい。黙って唸り声を聞いた。


突然、「ただいま!」の声とともに玄関の扉が開いた。入ってきたのは姉のみどりだった。短大を出てから逗子の信用組合に勤め始めて二年目だ。良太が電話中なのに気づいて静かに家にあがった。


 もしもーし。どこかで小さな声がする。あっそうだ。


 受話器に耳をあてた途端、洋子の大声が耳をつんざいた。


「うるせえな。聞こえてるよ」


「どなたかお帰りになったのね」


「姉貴だよ。ちょっと考えさせてくれ。役者?俳優? どっちでもいいや。とにかく、これまで考えたこともないのに、すぐには答えられないよ」と言うと、急に元気な声になった洋子が、「いつまで待てばいい? 今週? 来週?」と聞いた。


「今日は金曜日だろ? 週明けの月曜日まで待て」


「分かった。頼りにしてるから。絶対お願いね」


 あ、初美のことだけど…と言いかけたが電話は切れた。


◆◇


 受話器を置いて二階に戻ろうとした時、母親が俺を呼んだ。


 台所兼食堂の六畳に行くと、テーブルの前に座った母親の玉枝と姉のみどりがニヤニヤしながら良太に手招きをする。嫌な予感が良太の背筋を走った。


「まあ、お座りなさい」と母親が猫なで声で言った。ちなみに玉枝は逗子の小学校で給食の調理師をしている。


 それを無視して、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出してコップに注ぎ、ことさら緩慢な動きで二人の前に座った。みどりは夕食を食べている。


 母親が待ちきれないような調子で、「電話の高山さんて演劇部なの?」と聞いてきた。耳をダンボにしていたらしい。


「ああ、そうだよ」と言って、良太は麦茶を少し飲んだ。


「感じのいいお嬢さんね。でさ、定時制とか引退興行とか言ってたけど…いえ、けっして盗み聞きしてたわけじゃないのよ。聞こえちゃったのよ。私、年のわりに耳がいいから。で、演劇をやるのやらないのって揉めてたじゃない。良太、演劇をやるの?」。全部聞いてやがったな。


 そこに姉貴が口を挟んだ。「演劇部の高山さんて、洋子さんのこと?」。


「そうだよ。それが何か?」


「ちょっと耳にしたんだけどさ。洋子さんて美人で有名なのよ、知ってた?」


 確かに校内でも憧れている男子生徒は多い。


「姉貴、何で知ってるのさ」


「職場の後輩が森山高の出身て言ってなかったっけ。その子、香奈っていって今年卒業して入ったばかりなんだけど…良太、香奈知らない?」


「知らん。で?」


「香奈が言うには、今の森山高じゃベストスリーに入る美形だって」


「ふーん」


そこに母親が割り込んできた。「その美形のベストスリーの高山洋子さんに演劇をしないかって頼まれたの?」。


面倒くせえな、ったく。


「そうだよ」


「で、良太、やるの?」


「やらないよ」


「さっき週明けに答えるって言ってたじゃない」。みどりが責める。


「だから、面倒くさいからとりあえずそう言っただけ」そう言って、小鉢のきゅうりの漬物をつまもうとした瞬間、目の前の二人が合わせたように「お前、ひどい子だね!」と叫んだ。


「へっ?」


「へ、じゃないよ。先延ばしにして、そのあげく断るなんて、やり方が汚すぎる」。持っていたご飯茶碗と箸を置いてみどりが言った。


「だって、あのままじゃいつまでも電話を切りそうにないし、仕方なく…」。いつもこうだ。母親と姉にやり込まれては言うなりになっている。


「うるせえ。あんたたちにゃ関係ないだろ?」席を立とうとすると、「良太! 座りなさい」と母親が言った。


 そして、一転、柔らかい声音で言った。「とにかく、詳しいことを話してみない?」


◆◇


そのことを学校への逆戻り中のバスの中で思い出していた。


あの夜、全て白状させられた。いや、洋子の「私のためでもあるのよ」は除いた。なぜかは分からない。


おふくろはエプロンで目頭を押さえ、姉貴は上を向いたままだ。そして、震える声で母親は良太に厳命した。「良太。その荒井さんのために頼朝になりなさい」。

そして、演劇部員になった、いや、ならされた。で、今日は初めて部に出る日だった。


森山高校は横須賀市との境にある長寿ケ崎を見下ろす小高い丘の上にある。だから、バス通りから少し坂道を登らなければならない。良太はバスを降りて重い足取りを校門に向けた。校舎の時計は四時を少し過ぎていた。


例の体育館裏の練習場に行くと、気がついた洋子が腕を組んで良太を睨んだ。他の部員は良太のことに気がつかないふりをして、それぞれ発声練習をやっている。


「や、やあ。遅くなっちゃって」と言うと、洋子は「学生服じゃない。それじゃ練習できないよ。明日から体育のジャージに着替えてね。それじゃまず発声練習から」と言った。


「は、発声練習って」


「みんなやってるでしょ。さあ。あ、え、い、う、え、お、あ、お。か、け、き、く、け、こ、か、こ」


 本当にやらなきゃならないのかよ。漫画では嘆く場面に「トホホ」があるが、本当にトホホな気分だった。女だらけに男一人。仕方なく発声を始めると、「ほら、声が小さい!」と洋子が良太の背中を思い切り手でどやしつけた。部員の何人かはこらえきれずに吹き出している。例の荒井薫子は申し訳なさそうな表情で良太を見ている。良太は弱々しい笑顔でうなずいてみせた。


〈第一回・了〉




by toshi58asahi | 2025-11-02 16:33 | Comments(0)