2026年 02月 22日
第99回「その後の『新宿スイング』」
【そして文化祭へ 第一章 吹奏楽部】第六回 ドブ板通りよりはるかにヤバい街
次に挑戦する曲は『イン・ザ・ムード』に決まった。時刻は午後二時半だ。
丈二はエレキギターとアンプをバックヤードから運んできた。追分団子に熱中していた部員たちは、その光景を見るとはなしに見ていたが、気が付いた。あれ? 演奏するの? 聴かせてくれるの?
「うんと、そうだな。臨太郎、何にする?」
それだけで臨太郎には分かるらしい。
「ウエス・モンゴメリーがコルトレーンの『インプレッションズ』やったのあったじゃん、あれどうかな」
「ちょいとむずかしいが、やってみんべえか。りんさん、ピアノ頼めるか?」
「うん、コードワークだけだよ。アドリブは無理だよ」と言ってピアノの前に座った。
それを聞いた部員たちがざわめいた。一カ月前、臨太郎が退部騒ぎを起こした時に聴いた曲だからだ。ただ、その場にいなかった顧問のかおりだけは、周りのざわめきに付いていけなかった。
「ねえ。『インプレッションズ』て何?」。横にいたドラムスの根来に聞いた。
「すぐに始まりそうですから、終わった後で説明します」
丈二のソロ演奏が始まった。テナーサックスとは全然違う。正確無比なビートが刻まれつつ穏やかなスウィング感が全体を包む。グルーブ感と言った方がいいのか。
「秋山! 俺たちに乗れ」と突然丈二が叫んだ。
戸惑う秋山に、「俺たちをベースで支えろ。意味分かるだろ」と鋭く指示した。
意味を理解しベースを構えた秋山は、丈二が奏でるメロディーにベース音を添わせた。
「そうだ、できるじゃねえか。次、根来! お前も乗ってこい。間違えてもいいぞ。好きにやれ!」
根来は躊躇なくドラムに駆け寄った。
秋山と根来は丈二の催眠術に掛かったように疾走し始めた。
我慢ができなくなったかおりは席を移動して、臨太郎に聞いた。臨太郎の耳に向けて「これって何?」と囁くと、臨太郎はかおりの耳に囁き返した。
「部でジャズをやろうという話になった時に、参考で掛けた曲です。テナーサックスのパートをギターに変えています」と簡単に答えた。
何を言ってるか分からなかったし、りんがピアノを弾くことに関しても聞きたかったが、曲に集中したそうな臨太郎を見て、かおりは更なる質問を諦めた。
演奏が終わり、店内は驚きと感動の歓声と拍手が満ちた。
秋山と根来は自分が信じられないという表情で仲間たちを見回している。
丈二はギターネックを持ってプラグを抜いた。
◆◇
「三時だ。今日はこれでお終い。今、亭主の真上誠治が来る。駅まで送らせるからちょっと待ってて」とりんが言った。
それに対してかおりが「いえ。そこまでお手間を取らせては申し訳ありません。私たちだけで帰ります」と答えた。
「いや、新宿はやっぱり新宿なのよ。この西口エリアはそんなことはほとんどないけど、東口、特に歌舞伎町は高校生が立ち入るにはリスクが高すぎる。はっきり言えば、犯罪に巻き込まれる覚悟がなければ入っちゃいけない街って言っていいかな」
臨太郎が「横須賀のドブ板通りみたいな?」と言うと、「そうだな。別の意味ではるかにヤバいかもね」と答えた。
「西口も…今日は国鉄新宿駅からまっすく青梅街道に来たよね。その道と線路の間に何だかゴチャゴチャした飲み屋街があったの、気が付いた? あそこは終戦直後にできた闇市がそのまま残っている一角だ。ちょっとした冒険心で通ろうと思っちゃいけない。高校生には太刀打ちできない場所だ。歌舞伎町はその何十倍も危険だ。で、これからせいさんが新宿駅東口までみんなをガードしていくと言ってる。朝は普通の街だけど、遅くなるにつれて剣呑な街に変わってくる。年は七十だけど頼りになる。先生、いいよね?」
そう言われて、かおりは拒めず「よろしくお願いします」と答えた。
◆◇
部員たちが帰り支度を終えて、りんや丈二と次回の確認をしている時に、誠治が入ってきて、「用意はできたか?」と聞いた。
「せいさん、頼みます」と臨太郎が答えた。
「では、来週もお願いします」というかおりの挨拶をきっかけに、部員たちがお辞儀をしてからドアを開けて地上への階段を上った。最後尾に誠治が付いてくる。
空を仰いだ誠治は「まだ、日差しがきついね。だから、ゆっくり歩いていこう。そうそう、俺が戦争中まで働いていたのが、あの新宿署だ」と青梅街道越しにあるビルを指さした。その向こう側は空が広がっていて、ところどころに高層ビルが頼りなげに立っている。
横断歩道を渡って行きに歩いてきた道をたどった。国鉄の大ガードが見えてきた。手前の四つ角を右に曲がれば行きのルートの通りだ。
交差点で立ち止まった誠治は予想外の提案をした。
「さて、少し人生勉強と行くか。りんが説明したかもしれないが、あそこ一帯は戦後の闇市がそのまま残っている飲み屋街だ。その名も『しょんべん横丁』。真ん中を突っ切るぞ!」
こういうことが好きな男子部員は思わず「オー!」と歓声を挙げて片腕を突き上げたが、女性部員は「エー!」と戸惑いの低い声で応える。
誠治が怖いかおりは、臨太郎に小声で抗議する。「おじいさま、何をおっしゃってるの? 人生勉強って。ガードしてくださるのよね」とぼそぼそ言い募っていると、信号が変わって誠治が出発してしまった。元気な男子が誠治にくっついていく一方、女子がいやいや付いていく。
「先生、たぶん、これには意味があるんですよ。通い慣れてきたら、どうしても帰りに道草を食いたくなる。だから、りんさんが新宿の怖さを説明したんです。ガードが必要と言ったことで、その怖さがよりリアルになりましたよね。そして、実際にそのエリアに入っていくことで、気を付けなければならないことを間近で感じる」
かおりが何か言いかけると、「もう一つの目的は、僕たちが自分の知り合い、または身内に近い者だちということを、エリアの人間たちに知らしめる。これから見掛けることもあるだろうけど、決してちょっかいを出すなよ、という示威行動なんだと思います」と言った。
かおりは意外過ぎる返答に返す言葉を失った。
大ガードに向かって進むと、高架ガードの向こうに賑やかなビル街が見えた。
「あそこから向こうが歌舞伎町だ。りんも言ってたろ。足を踏み入れたら絶対に後悔するぞ。肝に銘じておけ」
迫力に押されて部員たちは無言でうなずいた。
◆◇
縦長のしょんべん横丁の入り口からのぞき込むと、左右に間口が一間ほどの狭い飲み屋が連なっている。
誠治を先頭に、怖さと好奇心が半分ずつの高校生プラス教師が“魔窟”に足を踏み入れた。
焼鳥、モツ焼き、うなぎの店からは、香ばしく食欲を刺激する臭いがもうもうたる煙とともに道に押し寄せる。
カウンターだけの店にはこんな早い時間から、男たちが酒を飲んでいる。カウンターの中にいる店の男や女たちが「どうぞー、飲んでってー」とか「美味しいとこ焼けてるよ」と声を掛けてくるが、明らかに未成年と分かると、「ここに何の用? マクドナルドは東口、新宿通りだよ」とか「商売の邪魔だよ」と不機嫌な声を投げつける。
その声が聞こえると、誠治はその店に向かって、「了解。そういうことをこの子たちに教えてる。忠告ありがとう」とかなんとか言い返す。
「あ、誠治さんの連れ、だったんですか。まいったなあ」と頭を掻く。横丁を通り抜ける間、そんなことが何度もあった。
中には、部員たちが楽器のケースを背負っているのを見つけて、店からわざわざ出てきて、「おねえちゃんたち、何の用? 一曲やってくれねえかな。ラッパ? ジャズできる?」と絡んでくる男もいた。
臨太郎は「できるけど、ギャラ高いよ。払える?」と言うと、「じゃいいや」と店に引っ込んだ。それを誠治は微笑みながら見ていた。
“魔窟”を抜け、誠治は「どうだ、面白かったか。その顔じゃ、そうだったりそうじゃなかったり、だな」と言ってから、線路の方を指さして、「ここから線路の地下道を潜る。その先は東口で新宿通り。今日はホコ天やってんだろ。このエリアで一番安全なところだ」と言った。
ガードに沿ってしばらく歩くと左に歩道が下がっていく。東口へ貫通する地下道だ。道幅が狭く天井が低い上、照明が少ないので、前から来る人にぶつからないように歩くのが一苦労だ。
その分、地下道を抜けた時の解放感は素晴らしい。
◆◇
国鉄新宿駅東口の広場で、送ってくれた誠治にみんなが口々お礼を言った。
「いやいや、若い人を引き連れて自分の縄張りをパレードするのは面白かったぞ。またやろう」
駅に行こうとした一行の中で声が上がった。
「先生、今日はここでたぶんこのまま団体行動で帰ることになるんでしょうが、次もそうなんですか?」。二年生の下条佳世だ。
「決めてなかったけど、そうした方がいいと思う」と言った途端、渋谷や原宿を通り過ぎるのって酷ですとか、夏休みですよとか、ものすごい勢いで全員から猛抗議が吹き上がった。
たじたじとなったかおりは、「それは帰りの電車の中で話し合いましょ、ね」と言って駅に向かった。
後ろを振り返った臨太郎は、自分たちを見守る誠治を見て、手を振った。誠治も振り返した。

