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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第102回「その後の『新宿スイング』」

【そして文化祭へ 第二章 演劇部】第三回 逗子海岸で


吹奏楽部のジャズ講座は、お盆で八月十七日は休みだ。食堂井之上も世間が休みなので休みを取っている。


臨太郎は日曜日、店を手伝っているが、夏休み中の日曜日は講座があるので、平日になるべく店のアルバイトをしている。お盆時期は講座も学校での練習もアルバイトもないので受験勉強に集中しようと思ったら、良太から逗子海岸で泳がないかという誘いが来た。真吾も誘ったという。


十七日は朝から曇りで、今にも雨が落ちてきそうな空模様で、しかも肌寒い。


午前十時、京急逗子海岸駅で三人は待ち合わせをした。真吾は珍しく電車でやってきた。


 海岸に着いたが泳ぐ気にならない。三人はあらかじめ服の下に海水パンツを着ていたので、脱げばすぐに泳げるのだが、そうしないで海岸の沿って走る国道一三四号の石壁に寄りかかってぼそぼそ話した。良太と真吾は時たま煙草をふかし、コークの空き缶に吸い殻を落とす。「おまわりさーん、ここで高校生が煙草を吸ってますよ」と大声を出したい衝動を臨太郎は抑えていた。本当に警官が来たら、この二人がどうするか見ものだと思ったが、自分も同じ喫煙高校生に間違えられるに違いないからやめた。


◆◇


 海の家の間から見える海と海水浴客を見ながら、「バイクじゃなかったんだね」と臨太郎が言うと、「たまには休ませる」と真吾はつまらなそうに答えた。


「ジャズはどうなってる?」。良太が聞いた。


「うん、なかなかハードだよ」と教室初日の様子を話すと、「丈二さんがギターで『インプレッションズ』弾いたのかよ。それにベースとドラムスが即興で合わせたって? 見たかったな、聴きたかったな」と良太が言うと、「誠治さんが自分の縄張りを案内したのか、それは確かに示威行動だ。それにドブ板通りよりはるかにやばい街だから寄るなって? 上等だぜ」と真吾が息巻く。


 予想通りの反応に苦笑した臨太郎は、「帰りは楽器パートごとに店で解散するんだけど、今のところ、せいさんの言いつけを破る人間はいない。真吾が部員じゃなくて良かったよ」と言った。真吾は「ケッ」と言って煙草をふかした。


「そうか、丈二さんが二学期に入っても学校に来てコーチを続けてくれるのか。良かったな。今度こそ練習を覗きに行くぞ」と良太は曇り空を見上げた。


「で、今何曲ぐらいマスターした?」


「マスターできたかどうかは分からないけど、『アメリカン・パトロール』、『イン・ザ・ムード』、『ムーンライト・セレナーデ』…三曲かな」


「全部グレン・ミラーか」


「これからベニー・グッドマン、デューク・エリントン、カウント・ベイシーかな」


「そりゃ大変だ」


 ジャズに興味がない真吾が座り込んで、砂山を作り始めた。


◆◇


「『北条政子』は進んでいるかね」


「なんだ、そのジジイみたいな言い方は。進んでいるよというか大幅に内容が変わったけどね」


 頼朝がいなくなったこと、歴史物に合わないキャラクターの良太は説明者になったこと、真吾は政子に頼朝のことを知らせる郎党になったこと、そして、九月十五日の創立記念日にリハーサルと称して生徒に披露すること。


「例の生徒会長が持ち込んだ話なんだ」


 真上りんを文化祭で歌わせようと目論んだイベンターの泣き顔が臨太郎の脳裏に蘇った。


「一カ月も早く仕上げなきゃならないんじゃ大変だね。真吾は暴れた?」


真吾は「俺はどういう奴なんだ。どうせやるなら早くやった方が、いろいろ考えなくていい。今、頼朝の郎党ってどんな奴かいつも考えているんだ」と意外な返事を寄こした。


良太が「演劇部の人間もおんなじように考えて、今必死だよ。俺は説明者、といっても実際は劇を動かしていく役割だから、芝居とは違うむずかしさがあるし、真吾は朴訥な関東の武士を演じなければならない。洋子に言わせれば、真吾のキャラクターが生きる役柄だってことだけど。なあ、真吾」と言うと、「そういうむずかしいことはともかく、セリフを覚えるのが大変だ。こんなに頭を使ったことないんだぞ」と頭を抱えて見せた。


 臨太郎と良太は顔を見合わせて吹き出した。



◆◇


「衣装のことまで考えてなかったんだが、俺たち、着物に袴なんだぞ。いやあ、まいったなあ、袴だぜ。な、真吾」


 うん、と真吾の反応がおかしい。


「袴はつらいよな。まだ着てないけど」


「いや、着てみてもいいかなって、ちょっと思ってる」


「何? 袴だぞ」


 というやりとりがあったが、役なら仕方がないということに落ち着いた。


 袴は小笠原礼法で所作を教えてくれている森山高校の事務の名取が貸してくれることになった。


 真吾は「袴はかっこいいけど、所作の稽古は苦手だ。昔の人間はあんな堅苦しい動き方をしてたなんて信じられないよ。なあ、良太」と言うと、「いや、気持ちがピッと引き締まっていいぞ」と返す。


 好みは人それぞれだなあと臨太郎が考えていると、大粒の雨が落ちてきた。


 三人は近くの海の家に雨宿りと冷たい飲み物を求めて駆け出した。


 小降りになったので、三人は良太の家に行くことになった。


「ちょうどいい。今日はうるさい母親も姉貴も出掛けているんだ。父親はいてもいなくても問題ないけど、母親と一緒に親戚の法事に行った。姉貴はどこかのプールに行くとか言ってたけど、この雨じゃな」


 家に上がって、風呂場で汚れた足を洗ってから食堂に落ち着いた。


「昼飯どうしようか。即席ラーメンでも作るか」。良太が聞くと、「僕が作るよ。材料出してくれたら」と臨太郎が言った。


「出前担当だろ。大丈夫か?」と真吾がからかうと、「門前の小僧、習わぬ経を読む、かな」と答えた。真吾は面食らって黙った。


 腹が落ち着いたので二階の良太の部屋に移動した。


「ここかあ、良太の城は」と言いながら早速、良太のレコードコレクションに興味を示した。


「ほんとにジャズ、それもモダンジャズばっかりだね」


「そうなんだ。ここに来るとそればっかり。キャロルとかダウンタウンブギウギバンドとかないのかと言うんだけどさ」真吾が愚痴った。


「君たちは『スモーキンブギ』そのものだからね」。ワハハと臨太郎が笑った。


「今、誰もいないから吸えるぞ」と良太はバミューダのポケットからハイライトを出して、窓を大きく開けた。


「ここんちは吸えないから困るんだよ」と真吾もカットオフジーンズのポケットからショートホープを出した。


◆◇


「でさ、『北条政子』はどういうストーリーになるの? 説明者の良太に説明してほしい」。臨太郎が聞いた。


「電話でそんなこと言ってたな。台本に沿って説明してやるか」と言って、学生カバンから台本を取り出した。だいぶ読み込んでいるらしく、四隅がめくりあがっている。


「先に言っとくけど、頼朝と政子の話なのに頼朝は登場しない、というより、登場人物が話す話題の中心は頼朝だ。最初、俺のセリフ、いや、朗読から始まるんだ」


〈それが、いま、誰ひとり彼女を支える人もいない最悪の状態に追いこまれたとき、はじめて、足をつっぱって大地に立つことを政子は知ったのである。物語の中の女――いわゆる王朝の女性とは違う、土のにおいのする坂東女の生き方を政子がつかんだのは、まさに、この瞬間であったかもしれない〉


永井路子の『北条政子』の一節である。


〈今から八百年前もの昔、関東の片田舎で自立した女性が誕生した。そして、その女性はいろいろ迷いながらも自分が信じる道を進んでいった。現代を生きている女性は政子に恥じない生き方をしているだろうか。時は治承四年、西暦では一一八〇年、平安時代の最末期である。先に述べた「最悪の状態」とは、夫頼朝の生死が不明であることだ。関東の武士に担がれて日本の新たなリーダーとして名乗りを上げてクーデターを起こした頼朝だが、厳しい戦いを強いられ、夫を待つ政子も窮地に立っている〉」


 息を詰めて聞いていたのを自覚した臨太郎は、酸素不足を深呼吸で補った。


◆◇


「日本史の授業で聞いたことがあると思うから、端折って説明するよ」


 源頼朝は鎌倉幕府を打ち立てて武士の世の中を誕生させた人だ。平治の乱(平治元年十二月九日、西暦一一六〇年一月十九日)の時、頼朝は父の源義朝とともに、平清盛を相手に戦って敗れた。父親は殺されたが、頼朝は清盛の継母の必死の命乞いにより一命を取り留めた。が、反体制的な政治犯として、流人として伊豆国の蛭ケ小島に閉じ込められてきた。


 が、平家に対する謀反の可能性がなければ、比較的行動は自由だった。都の貴人の常として女好きである。土地の女たちと浮名を流した。その中の一人が政子だった。


 政子は頼朝に夢中になった。しかし、父親の北条時政は「頼朝は平家の敵だ。そういう奴に娘をくれてやることは、とりもなおさず、平家に弓をひくことになる」と言って、平家の伊豆の代官、山木兼隆へ強引に嫁入りさせようとし、政子は渋々承諾して山木の館に入った。


その当時、親が決めた結婚は絶対服従で、断るようなことは考えられない。が、半年後、頼朝と示し合わせて山木が手出しのできない伊豆山権現へと出奔する。伊豆山権現というのは神社であり寺でもある宗教の聖地だ。

 治承二年(一一七八年)、政子は頼朝との子ども、大姫を生み、父、時政は山木に政子のことは諦めさせた。こうしたことから頼朝は北条氏を頼みにするようになった。


 治承四年(一一八〇年)、以仁王から平家追討の令旨、つまり、平家をやっつけろという天皇方面からの命令というか指示が来たことから、北条氏を始めとする伊豆の地方豪族を糾合して頼朝は決起した。相模の国の有力豪族、三浦一族の助勢を頼みとしたクーデターだったが、様々な事情で三浦の到着は遅れる。頼朝軍は窮地に立った。


「この後がこの芝居の最大の見せ場なんだ」と良太が言い、それまで他人事のように聴いていた真吾がうなずいた。


「頼朝のクーデター軍の勝利を祈りながら、政子と保子、四人の侍女が伊豆山権現に身を隠している。戦況の報告が郎党によって何度ももたらされるんだ。その郎党役が真吾だ」


◆◇


 真夜中、微かに戸を叩く音がして、押し殺したような声が聞こえた。


「もし、お目覚めでございますかっ」


 侍女の一人はあわてて蔀戸(しとみど)を開けた。燭を近付けると、縁先にうずくまったものが微かに身動きし、やがて全身の力を振り絞るようにして顔を上げた。

「あっ!」。政子や侍女たちの口から驚きとも悲鳴ともつかない叫びが上がった。


 いつも情報をもたらしてくれる郎党だったが、その顔には血の色がなく、泥と雨と血にべたべたにまみれ、眼ばかりがぎらぎら光っている。肩先がざっくり割れて、今も血が噴き出している。さらに足や腰にも傷を受けているらしい。


「お味方は…」


 縁にすがってそれだけ言うと、ずるずると体が崩れた。


 政子は小走りに縁際まで近付き、侍女に「手当てをしておやり」と言ったが、侍女たちは生まれて初めて見る凄惨な手負いの姿に度肝を抜かれて動けない。


 政子は自ら郎党の肩の傷に布を当てた。


「も、もったいのうございます」。郎党が喘ぐように言うのを、「じっとしておいで、雨がしみて痛かったろうに…」。政子はそっと傷口を拭い続けた。


 気を取り戻した保子が、血止め薬を持って駆け寄ってきた。


◆◇


 あれ? それって最近どこかで見た覚えが…臨太郎の脳裏に、あの土曜の午後、横須賀中央駅のガード下で遭遇した真吾の血だらけの顔、ミントに駆け込んだ時に真吾に駆け寄った荒井薫子の必死な顔。蓮子の冷静な行動…そうか。

 真吾を見ると真吾も臨太郎を見つめていた。


「もちろん偶然だよね?」。真吾は何も言わずにうなずいた。良太もうなずいた。


「驚いた」。臨太郎はうめいた。


◆◇


 介抱を受けながら、とぎれとぎれに郎党が語るには、夜に入ると敵方が優勢になり、政子の父、兄、弟はからくも無事だったが、頼朝は行方不明とのこと。


 政子は無表情で「行方知れずなら、死んだことではありませんね」とつぶやいた。


 政子が聞いていた都にいる王朝の女はこうした時、狂ったように泣き崩れるか、失神してしまうらしい。


 しかし、坂東の女、政子は泣き崩れも失神もしなかった。


(私は今、生涯で最悪の状態にある。その私が今、できることは何?)という現実的な考え方だった。


 それまでは勝気だと言われながらも、結局は父や兄や夫を頼りにしていた。それが今、誰一人、頼りにする人がいない最悪の状態だった。


 この時、初めて、両足を突っ張って大地に立つことを政子は知った。


 王朝の女とは違う、土のにおいのする坂東女の生き方を政子が掴んだのは、まさに、この瞬間であったのかもしれない。


 行方不明は死んだことではない、という言葉も、強がりでなく、自然に口から出た。


(先のことを考えても仕方がない。今のことを考えよう)


 そして、今やらなければならないのは、妹や侍女たちを落ち着かせることだ。それから、次の使いを待つことだ。


◆◇


「この後、政子たちは別の場所に移動する。勢いに乗る敵方が自分たちを捕まえようという目論見を崩すためだった。そして、移って七日目に使者が待ち焦がれた便りを持ってきて来た。頼朝が無事だという頼りだ。そして、真鶴岬から船で安房、千葉に父、弟たちと渡った。しかし、兄は戦死したという。政子は否応なく激動の時代を生き抜かなければならない。これで終わり」


 良太は新しく煙草に火を着け、うまそうに煙を吸い込んだ。その途端、階下でドアは開く音がして、「誰かいるの? 良太?」という姉のみどりの声が聞こえた。

「やべえ、窓を開けて煙を追い出せ」。小声で言ってから、ドアから首を出して、「ああ、俺」と大声で答えた。


引用文献:

『北条政子』永井路子著。講談社



by toshi58asahi | 2026-03-05 05:39 | Comments(0)