2026年 03月 26日
第108回「横須賀スイング 第一部 あの日から始まった」
第一章 もがく/第四回 横須賀ドブ板通り
結局、帰宅したのは夜八時過ぎになってしまった。家族は既に夕食を終えていた。
「何やってたの? こんな時間まで」と文句を言いながら、母親の玉枝は味噌汁を温め直してくれた。
「うん、ちょっとね」
「クラブ活動って休日までやるの?」
「ジャーナリズム研究会には平日も休みもないんだよ、うるさいな」。良太は文学部ジャーナリズム学科に進み、授業以外でもジャーナリズムを学んでいる。
「母さん、落ち着いて食べさせてあげなさい」。父親の尚之が言った
「お父さんは良太には甘いんだから。片付けるんだから早く食べて」
このうちの茶の間はいつもこんな感じだ。これに姉貴のみどりが加わるとさらに凄まじいことになる。と思っていたら本人が入って来た。パジャマ姿で頭をバスタオルで巻いている。
「何がジャーナリズムなんだか。だから理屈っぽいのよ。お前のどこがいいのか、上野初美ちゃん。くっついたり離れたり。恋愛はもっとクールじゃなくちゃ、私を見習って」
それを聞いて尚之がお茶にむせた。
「みどり、お父さんが動揺するようなことを言わないの」。玉枝がたしなめた。
「はいはい、よーく分かりました。俺も風呂に入る。ごちそうさま」と言って使った食器を流しに出した。
◆◇
六月二十一日、月曜日。良太は授業の合間に大学構内の公衆電話から、母校の森山高校の代表番号に電話をした。つながるのは事務室だ。相手の受話器が上がった。
「もしもし、名取さんはいらっしゃるでしょうか?」
「はい、私ですが」。良かった、本人だ。去年、演劇部の所作稽古で厳しく指導を受けた小笠原礼法の未来の師範、名取まゆみだ。
「去年、演劇部でしごかれた倉谷良太です。覚えてますか?」
「しごかれたって人聞きの悪い。覚えが悪かった男子部員ね。お元気ですか? 確か相模大学文学部に進学…」
驚いた。単なる一生徒のその後を把握しているのか。
「驚いたみたいね。卒業生全員を把握しているわけじゃないわ。記憶に残る生徒っているのよ。演劇部の二人とか、君とか、木下真吾とか。木下君にはびっくりした。竹梅映画撮影所に大道具として就職なんて。職員室ではいっとき話題をさらっていたわ。『あの悪童がまともに就職した』てね…」
このままだと限りなくしゃべり続けるだろう。こっちの十円玉がなくなっちまう。
「そんなことをしゃべって大丈夫なんですか? 周りとか」
「誰もいないからしゃべってんじゃない。で、ご用はなんでしょうか?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあって。卒業生に『おやまつ』さんていう人がいなかったかなって」
「おやまつさん。調べなきゃ分からないわねえ。でも、何で知りたいの?」。当然の疑問だ。ここで下手にごまかさない方がいいと本能的に感じる。
「俺の同級生に工藤達平というやつがいました」
「知ってる。全共闘狂いだけど本当は単なるミーハーの目立ちたがり屋ね」
「ちょっと前、電車で偶然会って、少しだけ話しましたが、もう少しきちんと話しておけば良かったと後悔したんです。家に電話したらお母さんが、一人暮らしをしているが電話はないというので、勤め先の電話番号を聞いて電話したけど出ない。もう一度家に電話して、お母さんから高校の先輩のおやまつさんに仕事を世話してもらったという話を聞いたので、高校に聞けば何か分かるかと思って電話したんです」
「ふーん。何だか釈然としない話ねえ。でもいいわ、他でもない洋子が信頼した倉谷良太の頼みだから調べてあげる。そう、夕方五時ごろにもう一度電話をちょうだい」
授業が終わってジャーナリスト研究会の部室に顔を出して、先輩たちと無駄話をして時間を潰し、さっき使った公衆電話で森山高校にダイヤルした。名取が電話に出た。
「残念だけど過去十年間分の卒業生の名簿を調べたけど、おやまつという名前はなかったわ。ちなみに工藤君は何の会社に就職したの?」
言うべきかどうか迷った。が、「消費者ローン、いわゆるサラ金です。そんなところで十八、十九の高校出たての男がどんな仕事をしているか想像もできない。仕事で疲れていたのかもしれないが、電車の時、すごくしょぼくれていた。だから、何もできないけど話を聞くことぐらいはできると思ったんです」と答えた。
「それが同時にジャーナリストという仕事へのトレーニングになると思ったりして…ごめん、余計なことを言ったね。もちろん、これは口外しない、安心して。じゃあね」と一方的に電話が切れた。
お見通しかよ、何もんだ、この女。当然相手には聞こえないが、大きく舌打ちしてやった。
◆◇
帰宅したとたん、玄関の電話が鳴った。良太が出ると、「真吾だ。昨日すごかったぞ」と挨拶もなしで大声でまくし立てた。
「ちょっと待てよ。今帰ったとこだ、靴も脱いでない」
「そりゃちょうど良かった。出て来いよ。俺はまだ途中だけど、すっ飛ばしていく。十五分で行く。国鉄逗子駅前のロータリーで待ってろ」と切れた。
「ったく、何なんだよ」と言いながら、入ってきたばかりのドアを開けて出ていった。
「おかえり…あれ?」。玉枝が出てきて首を捻った。
国鉄逗子駅前のロータリーは良太がほんの三、四歳の頃は、「街頭テレビ」で黒山の人だかりのただの広場だったが、今はちょっとした公園になっている。その周りはスーパーマーケットや魚屋、薬局、理容店、不動産屋などが軒を連ねている。その前はバスの発着所やタクシー乗り場だ。
ほどなく、なぎさ通りから真吾のバイクが現れ、ロータリーを半分回って駐車し、フルフェースのヘルメットを脱いだ。そしてベンチに座った良太の横に座った。西の空の赤みがまだ残っている。六月の夕暮れは七時過ぎまで続く。
「お前なあ、こっちの都合も考えろよ」。良太は怒って見せた。
「本気で怒ってたらここに来ないだろ」。真吾はせせら笑った。
「で、何なんだよ。たいした話じゃなかったら帰るからな」
「昨日、誠治さんと駅前でタクシーを拾ってドブ板に行った。運ちゃん、近過ぎるって文句言ったが、誠治さんがチップで黙らせた。ドブ板通りを誠治さんが言っていたEMクラブまで歩いていこうとしたら、前から俺の知り合い、っていうか拳骨仲間がやってきやがった」
またその話か。高校時代、たびたび聞かされたストリートファイト。卒業して二カ月ちょっと、やっと聞かなくなったと思ったら、古巣はやっぱり血がたぎるんだろうな。
「佐島の相模水産高校を出たやつらだ。よくやり合ったのは『ひさお』ってやつで、そんときもニヤニヤ笑いながらきやがった。前ならすぐに横道に誘ってやり合ったんだけど、誠治さんが一緒だから、無視して行こうと思ったんだ。そしたら、前に立ちはだかって足元に唾を吐いたんだ。それでも無視して行こうとすると、俺の背中に回し蹴りを入れてきた。痛いのを我慢して、ひさおに掴みかかろうと思ったら、ひさおが急にいなくなった。その後ろには誠治さんがいた」。真吾は一気に話した。
「たぶん、膝の裏っかわを膝頭で押したんだろうな。そして、ひさおの腕を後ろに捩じり上げて地面に倒し込んだんだ。腕を固めたまま、膝を背中に乗せて、ひさおの耳元に『俺の弟子を侮辱することは許さない』と低い声で言ったんだ。『俺の弟子』だぜ。年寄りが手際のいいところを見せたもんだから、呆気に取られてひさおの連れは何もできなかった。誠治さんは『腕を折るか、肺を潰すかどっちがいいか?』とひさおに言うと、『どっちも嫌だ』と潰れた声で言うんだ。誠治さんは腕の力を緩めてたみおを解放した。が、しばらくは油断しないでひさおたちを睨んでいたが、ふっと顔をほころばせて、『悪かったな。これで気分を直してくれ』って財布から金を出してひさおに渡した。そして、『真吾、行くぞ』と歩き出したんだ」
そう言ってから真吾は良太の反応を待った。
「何とか言えよ。すげえだろ? それでEMクラブまで行って、誠治さんは少し眺めた後、『喉乾いたな。お前、いける口だろ? そこらでビールどうだ』って言うから、ハンバーガー屋に入ってちょっと飲んで、誠治さんは『じゃあな』と言って国鉄横須賀駅に向かって行っちまった。何か気が抜けたけど、俺は満足だ」
と言ってまた良太の反応を見た。
「最後の部分は真実だが、その前はフィクションだな」。良太は言った。
「フィ、フィクション? 何じゃそりゃ」
「都合よくお前の喧嘩仲間が登場したり、因縁を吹っかけてきたり、それを誠治さんが防いだりするか? 体のいい不良漫画じゃねえか。いつから考えてきた? その筋書き」
「しっつれいなやつだな、ほんとだぜ」
「で、何でわざわざそれを言いに来たんだ?」
「くっそー、信じないんだな。家に帰って昼寝して、バイクでミントに行った。そしたら、お前が帰ったばかりだって。何しに来たのか聞いたら、工藤の母親から話を聞いて、これ以上聞いて回るのはやめた方がいいんじゃないかと悩んでいたと聞いて。落ち込んでいるかと思って…」
「励ましに来てくれたか? ありがとうよ。蓮子さんや薫子は続けるべきだと言ってくれた。薫子は、自分のことを気にしている人がいるというのは、すごくうれしいことなんだって言ってた。それが怖気づいた俺の背中を押してくれたよ。いい子だな、お前の彼女は」
「ば、ばかやろう」と言って真吾の顔は真っ赤になった。夕焼けの中でもはっきり分かるほどだ。
「腹が減ったな。俺んちで飯を食ってけ」と言って良太はベンチから腰を上げた。

