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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第15回●昭和30年代、ジャズの都会的雰囲気を取り込んだ「都会調流行歌」が登場

キーワード: フランク永井と松尾和子/宮川泰/中村八大/西田佐知子


 前回、昭和20年代(一部は30年代にかかっていたが)の日本の流行歌におけるジャズの影響について説明した。娼婦や靴磨き少年を主人公とした戦後の社会問題提起的なものを除いて、多くは東京暮らしとか恋愛の楽しさうれしさを表現する明るい内容だった。昭和30年代になりそれは加速する。


実は私が本ブログを始めようと考えるきっかけになったのが、『創られた「日本の心」神話「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(以下「戦後大衆音楽史」)の中の「都会調流行歌」について述べた部分だった。


『戦後大衆音楽史』は次のように書く。


〈昭和30年代の歌謡スタイルとして重要な「都会調」について触れておきましょう。「田舎調」は、その同時期に形成された「都会調」との相補的な関係において人気を博していたからです〉


つまり、田舎調と都会調という両極的なテイストがあって、もう一方を否定する。例えば田舎調側から「やっぱり故郷はいい、都会は疲れる」といったような望郷の感性をテーマにする一方で、「都会は楽しい、田舎はさびしい」という田舎否定のテーマを対比させて、大衆へ相乗効果的にアピールした、という展開手法だろう。


 20年代に続いて、30年代の都会調流行歌でもジャズは重要な構成要素となった。


〈「都会調」スタイルは、昭和20年代後半になって、それまでもっぱら米軍キャンプで演奏されてきたジャズ系の音楽が一般の日本人に聴かれはじめたときに、その雰囲気を取り入れた日本語歌謡として生み出されました。

 フランク永井、松尾和子、和田弘とマヒナスターズなどは、元々米軍キャンプで活動していた音楽家で、占領終結後はナイトクラブでも活動していました。「都会調流行歌」とは、基本的にジャズやラテンなどの洋楽が演奏される高級ナイトクラブで歌われても違和感雄ない、洋風の日本語歌謡であるといえます〉


 フランク永井と松尾和子はジャズシンガー、マヒナスターズはハワイアンバンドである。


〈《有楽町で逢いましょう》(フランク永井)、《再会》(松尾和子)、《誰よりも君を愛す》(松尾和子とマヒナスターズ)、《東京ナイトクラブ》(フランク永井と松尾和子)などを典型とする「都会調流行歌」は、ビクター専属の作曲家・吉田正の発明といえます。

 音楽的な特徴としては、ゆっくりとスウィングするリズム、和声の進行感がはっきりとした西洋的七音階の哀愁漂う旋律、サックスやスチールギターによる前奏と間奏、コーラスの甘い響き、きらびやかな東京のナイトライフとそこで繰り広げられる男女の恋愛を描いた歌詞、などが挙げられます〉


 聴いたことがある人も、これから聴く人も納得してくれるだろう。描かれているのは都会に暮らしている人々のソフィスティケートされたライフスタイルで、実際にそのような暮らし方をしていた人はごく一部だったろう。庶民にとっては憧れの世界、ファンタジーの世界だったと思われる。


 スタートは昭和32年(1957年)発売の『東京午前三時』(歌・フランク永井、作詞・佐伯孝夫)だ。以下、フランク永井初の大ヒット『有楽町で逢いましょう』(昭和33年/1958年)、フランク永井と松尾和子のデュエット『東京ナイトクラブ』(昭和34年/1959年)、松尾和子『再会』(昭和35年/1960年)まではいずれも佐伯孝夫・吉田正コンビだ。


松尾和子とマヒナスターズの『誰よりも君を愛す』(昭和35年)は作詞が川内康範に変わった。


 私は昭和33年(1958年)生まれだから、『東京午前三時』の翌年に生まれた。前回紹介した映画『嵐を呼ぶ男』は33年の正月映画としてヒットした。奇妙な符合だがこうした新しい流行歌が生まれた時代に私は生を受けたことになる。そこに何の因果関係もないことは分かっているが、若い両親のもと、こうした新しい流行歌は私の周辺に満ち溢れていたと想像したい。なによりも父親はジャズ好き、母親は元ダンスホール好きだった。田舎調の流行歌を好むとも思えない。


 私が出生地は神奈川県逗子市、母親の実家の近くだが、実際に生まれたのは隣の鎌倉市の産院だったらしい。母親は横浜高島屋のデパートガールの仕事を出産の間だけ休み仕事に復帰した。不器用な父親は自分に合った仕事がなかなか見つからず、私が23歳の頃は新聞配達でなんとか凌いでいた。


 1950年代後半から60年代前半に逗子には「逗子日活」と「逗子東映」という大手映画会社の系列映画館があった。新聞配達という仕事柄、昼間は暇を持て余す父親は、逗子日活に頻繁に“しけこんだ”。幼児の私を連れてだ。後年よく聞かされた話で「映画を観ていたら、横にいるはずのお前がいなくなったんだ。暗い館内を必死に探したら、最前列の席で寝ていたよ」。もしかしたら、石原裕次郎や小林旭、宍戸錠、浅丘ルリ子などが繰り広げる“無国籍”映画が幼児教育だったのかもしれない。


『銀座の恋の物語』(作詞・大高ひさお、作曲・鏑木創)は昭和36年(1961年)に発売された石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲。昭和37年(1962年)にこの曲を主題歌にした日活映画が公開されたということから、幼児の私も観ていたかもしれない。なお、先述の『東京ナイトクラブ』とかなり近いテイストであることは間違いない。


 この他、私がジャズがベースとなっているのではないか、または演奏がジャズである楽曲ではないかと考えているものは次のようなものだ。


【ウナ・セラ・ディ東京】

前回、『嵐を呼ぶ男』でジャズを演奏したバンドの1つが「渡辺晋とシックス・ジョーズ」であり、その渡辺晋が「渡辺プロダクション」を立ち上げてクレージーキャッツを人気バンドに変貌させたと書いた。その出自から渡辺プロは洋楽志向の芸能プロダクションであり、最初に見出した歌手は「ザ・ピーナッツ」(昭和33年/1958年デビュー)で、洋楽のカバーとともにオリジナル曲も多数出している。オリジナル曲のほとんどを手掛けたのが作曲家の宮川泰。その中で最もジャジーな一曲が、昭和39年(1964年)に発売した『ウナ・セラ・ディ東京』(作詞・岩谷時子)だ。


【作曲家・中村八大】

同じくジャズメンがポップス界に転身した例が「中村八大」だ。前々回に紹介した通り、昭和28年(1953年)に結成されたクインテット「ビッグフォア」は日本初の大人気ジャズバンドとなり、日本人バンドによるジャズブームを牽引することとなった。しかし昭和30年代に入るとジャズブームは衰退し、メンバーのピアニスト、中村八大はポップスの世界に活路を見出した。


作曲家として初めてその存在感を世の中に知らしめたのは、ジャズメンならではの緻密な音楽理論と技術で作った『黒い花びら』と『黄昏のビギン』(ともに昭和34年/1959年発売、作詞・永六輔、歌・水原弘)だった。その4年後、昭和38年/1963年に発売した坂本九の『上を向いて歩こう』(作詞・永六輔)はご存じの通り、日本のポップスで唯一、アメリカのビルボードNo.1に上りつめた曲として歴史にその名を残している。この曲は日本独特のヨナ抜き音階を用いながら、リズムはジャズ風にスウィングするという日本と西洋の音楽の優れた部分を融合している一曲だ。


【歌手・西田佐知子】

ここまで紹介してきた昭和30年代の「都会調流行歌」のほとんどは、都会の華やかな面を謳歌する内容だが、一方、当時の日本が抱えるやるせない気分を表現したのが、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』(昭和35年/1960年、作詞・水木かおる、作曲・藤原秀行)だ。1960年は日米安保条約締結が決する年で、反対闘争が行われたが結果的に反対派は敗北した。その厭世観を表現したことで日本人の気持ちに寄り添ったことが、ヒットに結びついたとされている。ブルージーな雰囲気で「死」という言葉も扱うことが当時としては画期的な楽曲だった。西田佐知子の乾いてけだるくビブラートのない突き放したような歌い方が効果的だ。


昭和39年(1964年)発売の『東京ブルース』(同)は、昭和10年代から連綿と続く和製ブルースの1つだが、西田佐知子のブルージーな歌唱がそれまでのブルースものと一線を画している。


〈「都会調流行歌」は、やがて「ムード歌謡」として「演歌」形成期にはその「夜の巷」のイメージの源泉となっていくのですが、成立の時点では「バタくさい」ものであったのです〉と『戦後大衆音楽史』と書く。それは昭和40年代に入ってからの日本の流行歌の歴史だ。次回に紹介する。


〈第15回・了〉


参考文献:

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史(輪島裕介、光文社新書、20101020日第一刷発行)




# by toshi58asahi | 2021-11-20 17:50 | Comments(0)

第14回●昭和20年代、戦後直後から日本の流行歌が変わり始めた

キーワード: 星の流れに/港が見える丘/東京夜曲/嵐を呼ぶ男/ヌーベルバーグ映画


 映像で敗戦直後の日本を説明する場合、新橋の闇市を人々がうごめいている映像に並木路子『リンゴの唄』が重なるのは定番中の定番だ。異議ある人いますか?


 そして、全てを失ってマイナスから再出発の日本人のメンタルを、やけくそ気味の明るさで表現したのが笠置シズ子の『東京ブギウギ』だ。どこかの劇場の舞台でビッグバンドを従えたクルクルパーマのおばさん風の笠置が、力いっぱい喉も破れよという迫力で歌う、というよりは叫んでいるのをテレビなどで見た人もいるだろう。


 作曲家の服部良一とコンビを組んで、笠置シズ子は様々なブギウギ歌謡を歌い「ブギの女王」と呼ばれた。服部良一は戦前からジャズの音楽感性を日本の流行歌に取り入れたことから、ジャズ、すなわち洋楽風の流行歌を作る最先端の音楽家とされていた。だから、『東京ブギウギ』もジャズと見なすのは仕方がないと思う。


 youtubeで『東京ブギウギ』を聴いてほしい。ジャズのいち構成要素であるブギウギを取り入れた新しいテイストの日本の流行歌ではあるが、ジャズではない。


『戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ』ではこう書いている。


〈戦後に江利チエミの歌った「テネシー・ワルツ」や、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」をはじめとする日本語の一連のブギウギのヒットソング(「日本流ブギウギ」というべきだろうが)なども、多くの日本人に「ジャズ」だとみなされていたようだ〉


 江利チエミの「テネシー・ワルツ」は、正しくはカントリー&ウエスタン調のポップスである。


 ジャズ・フィーリングという観点で昭和20年代の流行歌を聴いてみた上で、次の6曲をピックアップした。いずれもミディアムテンポのバラードで、演奏は小編成またはビッグバンド。ただ、メロディーは日本人の耳に馴染むテイストだ。


1】作曲家・利根一郎作品

「星の流れに」(歌・菊池章子、作詞・清水みのる。昭和22年/1947年)=内容は戦後の混乱の中、食べるため、家族を食べさせるために街に立った娼婦のモノローグ。メロディーはジャズというよりブルースに近い。菊池章子の投げ出したような力強い歌声が娼婦の悲しみと諦めを的確に表現している。


「星影の小径」(歌・小畑実、作詞・矢野亮。昭和25年/1950年)=「星の流れに」から一転しロマンチックな内容の歌詞を甘いメロディーで包み込む。ちあきなおみのカバー(1992年)で存在が再認識された。


「ガード下の靴みがき」(歌・宮城まり子、作詞・宮川哲夫。昭和30年/1955年)=父親を亡くし病気の母親を抱える少年が街の片隅で靴磨きをしながら語るモノローグ。宮城まり子の張りのある声をビッグバンドが支える。


「星の流れに」「星影の小径」は後年多くの歌手がカバーしているスタンダードナンバーだ。


2】作詞作曲家・東辰三、歌・平野愛子作品

「港が見える丘」(昭和22年/1947年)、「君待てども」(昭和23年/1948年)=ファルセットを交えた情感たっぷりの平野愛子の歌声が、東辰三の和風にもバタ臭くも聞こえるロマンチックなメロディーをじっくり歌い上げる。この2曲もスタンダードナンバー化し、特に注目されたのが2013年に発売された女優の高岡早紀のカバー。ジャズピアニストの演奏で歌う。なお、高岡早紀は横浜・関内の老舗ジャズ喫茶「エアジン」のお嬢さんとして有名だ。


3】山口淑子「東京夜曲(セレナーデ)」(昭和25年/1950年。佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)

 美人女優・李香蘭こと山口淑子はクラシックのソプラノの歌姫としても大成したはずだと言われる優れた歌い手。その山口がビッグバンドに添って歌うセレナーデは、李香蘭時代の中国風節回しも聴こえる日本、アメリカ、中国ミックスのテイストだ。


【4】「東京の屋根の下」歌・灰田勝彦、作詞・佐伯孝夫、作曲・服部良一

 昭和23年(1948年)発売の服部良一作曲の東京の名所を歌い込んだ明るい都会的楽曲。作詞の佐伯孝夫は「東京夜曲」の作詞も担当しているが、昭和30年代以降の活躍する作詞家だ。


 と、ここまでの10年間は日本人のロマンチシズムやセンチメンタリズムに彩られた内容または、娼婦や靴磨きといった戦争に敗けた国の弱者の姿を優しく見つめる内容を、全く新しい演奏で表現した。


 しかし、昭和30年代に入ると状況は一変する。野心家の作曲家と、ジャズシンガー出身の男と女の歌い手によってだ。日本におけるジャズ、日本人にとってのジャズの存在感、存在意義を決定づけるエポックメイキングとなった歴史の担い手だ。それは次回。


 もう1つ、日本におけるジャズの立ち位置を暗示させる映画の世界の出来事があった。邦画では日活映画『嵐を呼ぶ男』であり、洋画ではフランスの一連のヌーベルバーグ映画である。


まず『嵐を呼ぶ男』は昭和32年(1957年)の年末に公開された石原裕次郎主演の日活映画。ジャズドラマーの石原裕次郎がドラムを叩きながら「おいらはドラマー、やくざなドラマー」と歌うシーンは有名で、後年、憂歌団が「俺たちゃ憂歌団、やくざな憂歌団」とパクってライブのオープニングに演奏していた。


『戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ』では次のように紹介する。


〈結局、『嵐を呼ぶ男』では、戦後日本におけるジャズ状況の変遷も、一般人のジャズに対する認識も垣間見ることができるという意味で、この作品は戦後ジャズ受容史の貴重な〈ドキュメント〉として見なせると思う。上述したように、日本語の歌を含む幅広い「大衆音楽としてのジャズ」のイメージが中心となっているが、同時にモダンジャズの芽生えも見られ、当時の日本のジャズ界の異種混合の状態をかなり鮮やかに反映しているといえよう〉


要するに、『嵐を呼ぶ男』を観れば、戦後、一般の日本人はスウィングジャズをどのように感じ楽しんできたが分かると同時に、一部のジャズメンを中心にビバップを取り入れようとする状況が分かるというものだ、ということだ。それについては次のようにくわしく説明している。


〈作品中で見られる主なジャズ・スタイルは、大まかに〈スウィングジャズ〉の傘下に入るだろうが、ビバップやクールなどモダンジャズ的な要素も聴こえてくるときがある。(中略)(ちなみに、実際にこの映画のジャズを録音したバンドとは白木秀雄クインテットと、渡辺晋とシックス・ジョーズである。)〉


 実際にこの映画のジャズ演奏を聴くと、スウィングジャズのような優雅さより、ビバップの荒々しさの方を感じる。ちなみに、渡辺晋はこの映画の直後、芸能プロダクション「渡辺プロダクション」を立ち上げ、ジャズバンドの「クレージーキャッツ」を人気バンドに変貌させた。


 一方の洋画による日本におけるジャズの立ち位置の方向性を暗示させるものは次の通りだ。


〈ところが、『嵐を呼ぶ男』という大衆向けの映画が醸成されている同じ時期に、日本の文化人層の観客は、全く違う類の映画によって本格的なモダンジャズにさらされていた。すなわち、マイルス・デイビスの演奏をバックに使ったルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』やセロニアス・モンクとアート・ブレイキーの音楽が流れているロジェ・バディム監督の『危険な関係』など一連のフランスのヌーヴェルヴァーグ映画のことである。これらの映画に接するまで、モダンジャズを聴いたことがなかった、あるいはジャズ全体が軽薄だと蔑視していた日本人も、急に熱烈なモダンジャズファンになった例が少なくない〉


 昭和30年代に入り、一般大衆にも、知識層にもジャズは浸透し始めたということだ。


 モダンジャズは30年代半ばから急速に過激な音楽へと変貌していく。一方で、前述の通り、30年代に入るとジャズは流行歌に取り込まれていく。


〈第14回・了〉


参考文献:

1) 戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ(マイク・モラスキー。岩波現代文庫。2017516日第1刷発行)




# by toshi58asahi | 2021-11-13 15:30 | Comments(0)

第13回●ジャズの革新「ビバップ」とは

キーワード: 踊れないジャズ/聴くためのジャズ/クラシックの音楽理論


 前回、戦後の日本の若手ジャズメンの前に颯爽と登場した新しい時代のジャズ「ビバップ」について記した。


 ビバップとはどういうジャズか説明する前に、もう少し、日本におけるビバップの浸透ぐあいを紹介する。


〈アメリカでは、ビバップは終戦直後からせいぜい1950年代初期までが「全盛期」といえる。(中略)日本の場合は、1948年からレコードなどが紹介され、松本伸のイチバン・オクテットというネオ・バップのようなバンドが結成されていたが、守安祥太郎や秋吉敏子とその周辺のミュージシャン(宮沢昭、渡辺貞夫、清水潤など)は本格的にビバップを勉強し始めたのは、だいたい1950年以降だった。守安の唯一の録音である伝説的な1954年の『幻のモカンボ’54』を現在聴くと、守安の技量に感銘を受けながらも、全体としてその時点でビバップの種を植えようという状況であるような印象を受ける〉(戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ)


 ジャズファン以外でも秋吉敏子(ピアニスト、作曲家)と渡辺貞夫(サックス奏者)の名は知られているのではないだろうか。『幻のモカンボ‘54』のモカンボとは横浜・伊勢佐木町にあったナイトクラブ。19547月にそこで行われたジャムセッションが録音されたものがレコード化されたのが『幻のモカンボ‘54』だ。


 前述の通り、日本におけるビバップはまだ「種を植えようという状況」であり、〈ビッグ・フォアをはじめとする当時の人気バンド(シックス・レモンズ、グラマシー・シックスなど)の演奏は、スウィング・ジャズをモダンにしてビバップの雰囲気を多少加味したもの〉(あなたの聴き方を変えるジャズ史)だったようだ。


「ビッグ・フォア」は前回紹介したスウィング系ドラマーのジーン・クルーパの影響を受けて、昭和28年(1953年)に結成されたクインテット。ドラムのジョージ川口、ピアノの中村八大、ベースの小野満、サックスの松本英彦という編成で、日本初の大人気ジャズバンドとなった。中村八大は数年後、ジャズを辞め、「黒い花びら」や「上を向いて歩こう」で日本を代表する作曲家になった。


 さて、タイトルのジャズの革新「ビバップ」について説明しよう。1940年代初頭のニューヨークが舞台だ。


〈ビ・バップはアフター・アワーズのジャム・セッションから生まれた音楽でした。いずれもジャズの用語なのですが、アフター・アワーズとは本来の営業的な仕事が終わったあと、主に深夜のことで、ジャム・セッションとはたまたま集まったミュージシャンが一緒に演奏を行うことです。

ビッグバンドの仕事を終えたジャズメン達が楽器を手に深夜のジャズ・クラブ――ニューヨークの“ミントンズ・プレイハウス”など――に集まり、スウィングやビッグ・バンド・サウンドではない、独自の発想でセッションをしていたのです。

 華やかに見えるビッグ・バンド黄金時代ですが、後半期になるとそのサウンドと姿勢に不満を持つ若手ジャズメンも現れ始めました。(中略)彼らのこうした不満と音楽的探究心の中からビ・バップという新しい音楽が生まれたわけです〉(二十世紀ジャズ読本)


 中心人物はチャーリー・パーカー(アルトサックス)、ディジー・ガレスピー(トランペット)、チャーリー・クリスチャン(ギター)、バド・パウエル(ピアノ)、セロニアス・モンク(ピアノ)などだ。ビバップを牽引したのはチャーリー・パーカーだ。


『あなたの聴き方を変えるジャズ史』がビバップの特徴をスウィングジャズと対比させて分かりやすく説明している。


⓵ディキシーランドジャズやスウィングジャズは「ダンス・ミュージック」「踊れる音楽」だったが、ビバップは「踊れない音楽」「踊れないジャズ」である。つまり「聴くためのジャズ」。


⓶ディキシーランドジャズやスウィングジャズに比べて、ビバップはコード進行やアドリブのフレーズが飛躍的に複雑になった。〈ちょっと専門的な話になりますが、ディミニッシュ・スケールやオーギュメント・スケール、和音で言えばフラット・フィフスやフラット・ナインスなどの、20世紀のクラシックで使われているものと同じような音列や和音を、彼らはジャズに導入したのでした〉。


専門的過ぎるので軽く聞き流してほしいが、重要なのはクラシックの音楽理論を活用しているという部分だ。


〈それまでのジャズのアドリブは、それがいかにテクニカルなものであっても、「歌」の延長線上にあったと言えます。ルイ・アームストロングもコールマン・ホーキンスもレスター・ヤングも、極端な言い方をすれば「ものすごく見事な鼻歌」だったわけですね。しかしパーカーを中心とするビバップ・ミュージシャンたちは、「鼻歌では絶対に歌えないフレーズ」を演奏するようになりました〉


 それも高度な音楽理論やテクニックを学び演奏に活用しているからだ。


⓷スウィングジャズとはリズムの感覚が全く異なることになった。スウィングジャズまでのリズムは、〈その根底にアフリカ的なオフビート(2拍目と4拍目にアクセントがある)(アフタービート)を持っていたとしても、表に現れるビートは1拍目をきちんと強調するものでした。しかしビバップの人たちは、最初からオフビートだけを強調するリズムを刻んだのです〉という。


⓸〈スウィング・ジャズ時代、大事なものはあくまでも曲のメロディであり、即興演奏はある意味で「おまけ」でした〉が、ビバップは曲のテーマよりも、即興によるアドリブ・ソロを重視した。〈パーカーの演奏には、テーマのメロディが最初から存在していないものもいくつかありますし、彼の書いた曲の多くは、自分のアドリブをそのまま曲のテーマにした、としか思えないものなのです〉。


 付け加えれば、携わるジャズメンの人数が格段に違う。第10回で説明した通りスウィングジャズを演奏するビッグバンドの場合、17名前後だが、それに比べ、ビバップの場合はサックス、トランペットのホーンセクション2名、ピアノ、ベース、ドラムスのリズムセクション3名の計5名が基本的構成だ。


 前述の通り、アメリカにおけるビバップの全盛期は1950年代初期までが全盛期と見られる。その後、ビバップはクールジャズ、ウエストコーストジャズ、ハードバップ、モードジャズ、フリージャズなど細分化していく。


 次回はジャズが日本の流行歌、大衆音楽にどのように影響を与えたかについて検証したい。


〈第13回・了〉


参考文献:

1) 戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ(マイク・モラスキー。岩波現代文庫。2017516日第1刷発行)

2) 『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(村井康司。シンコーミュージック・エンタテイメント。2017106日初版発行)

3) 二十世紀ジャズ読本(定成寛。ブックマン社。2001725日初版第1刷発行)




# by toshi58asahi | 2021-11-07 07:52 | Comments(0)

第12回●戦後、アメリカ文化の“最先兵”としてスイングジャズが上陸した

キーワード: 進駐軍放送/進駐軍クラブ/日本人ジャズメン 


 前回、戦前における日本で初めてのジャズブームについて紹介した。太平洋戦争への突入によって、日本におけるジャズは瀕死同然の状態だった。しかし、実際はそういうこということはなく、水面下でしたたかに生き残っていた。井上ひさし作の戯曲『きらめく星座』は戦争突入前の日本人が、禁止されながらもジャズを始めとした“敵性音楽”をいかに愛したかを紹介する音楽劇。単行本『きらめく星座昭和オデオン堂物語』でも楽しめる。


 1945年、昭和20815日、日本は敗戦または終戦した。それを機に堰を切ったかのように日本になだれ込んだのがアメリカ文化で、特にジャズの大奔流は“隠れジャズファン”の息を吹き返させただけでなく、日本の大衆音楽をも大変革させることになった。


 そのジャズこそ、戦前のディキシーランド調のジャズよりもっと派手で明るくソフィスティケートされたダンスミュージックの「スウィングジャズ」だった。


「かまやつひろし」または「ムッシュかまやつ」の自伝『ムッシュ!』(日経BP社。200292日初版第1刷)にこんな記述がある。


1945年、アメリカ軍が日本に進駐してくると、進駐軍放送――のちのFEN、現在のAFNだが、当時はWVTRというコールサインで呼ばれていた――が始まり、ラジオからジャズがあふれるように流れてきた。若者はみんなそうだったと思うが、ぼくもジャズの魅力にとりつかれた〉


 19461月に7歳になったムッシュの証言だ。かなり早熟であるが、それというのも父親が戦前から活躍してきた「ティーブ釜萢」、叔父が同じく戦前から活躍してきたジャズトランぺッターの「森山久」(森山良子の父親、森山直太朗の祖父)という音楽環境があったからだろう。


〈夢中になってWVTRを聴き、ジャズにのめり込んでいった。森山家にはルイ・アームストロングやハリー・ジェイムズなど、昔のオーケストラのレコードがたくさんあったので、それもかたっぱしから聴いた。デキシーランド・ジャズにハマってしまったぼくは、叔父・森山久にトランペットを習い始めた。


 52年にジャズ・ドラマー、ジーン・クルーパが来日した。ぼくが初めて目の当たりにした外タレのコンサートだった。翌53年には、先ごろ亡くなったノーマン・グランツ率いるATP、そしてルイ・アームストロングがやって来た。日本中がジャズ・ブームにわき、大騒ぎだった〉


 ムッシュの証言をもう少し続けよう。


〈戦争が終わって1年か2年後くらいに、ティーブはやっと戦地から帰ってきた。森山久がニュー・パシフィック・オーケストラというバンドを米軍相手にやっていたので、一緒に仕事をするようになった。米軍に接収され、沖縄で戦死した従軍記者の名をとってアーニー・パイル劇場と改名された宝塚劇場や、新橋第一ホテル、横浜グランドホテル(現ホテル・ニューグランド)などが主な仕事場だった〉


 ムッシュは1516歳ぐらいまではジャズ一辺倒だったが、次第に興味はカントリー&ウエスタンに移り、その後、ロカビリー、グループサウンズと転身していった。


 ムッシュが熱中したのはディキシーランドジャズだったが、ジャズ・ドラマーのジーン・クルーパはスウィングジャズの名ドラマーで、スウィングジャズを代表するベニー・グッドマン・オーケストラを支えたジャズメンでもある。


 そのクルーパが来日した1953年前後、〈多くの日本人にとってのジャズとは、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーのようなスウィング系、またはスウィング以前のディキシーランドジャズ、あるいは今日「ジャズ」と全く見なされないさまざまなダンスミュージックや歌などを指していたのである〉と『戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ』は記す。


 戦前からほとんど全ての西洋の大衆音楽は「ジャズ」と呼ばれていた。戦後もその傾向は続き、ジャズのみならずハワイアン、タンゴ、ラテン、カントリーもみな「ジャズ」だった。その中でディキシーランドジャズは既に“過去”のジャズとなっていて、ジャズと言えばスウィングジャズだった。


『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(村井康司。シンコーミュージック・エンタテイメント。2017106日初版発行)では、日本の敗戦で日本に上陸した占領軍(進駐軍)の将兵のためにダンスホールやナイトクラブなどの施設を提供することになり、〈そうなると、アメリカ人が喜ぶ音楽を演奏するミュージシャンが大量に必要になります。不遇をかこっていた戦前派ジャズ・ミュージシャンはもちろんのこと、元軍楽隊の人々、戦前に趣味で楽器を弾いていたアマチュアなどなど、実に多くの日本人が、実力に応じた報酬で、全国の進駐軍向け娯楽施設で演奏活動をなったのでした〉と記している。


 前述した宝塚劇場や新橋第一ホテル、横浜グランドホテルなどのほか、全国各地の進駐軍基地やその周辺に設置された施設で、〈日本の場合は、ダンスホールの他にも占領軍基地内のクラブがあった。当時、米軍基地や施設が日本全国に点在しており、したがってスウィングの演奏場が日本の辺鄙な地方にもあったわけである〉(同前)という。


 以上のように、終戦直後の日本のおけるジャズのメインステージは、ムッシュがラジオに齧りついて聴いた進駐軍放送と、米軍の将兵のためにホテルのボールルームや劇場、米軍基地内外のクラブなどの娯楽施設での“日本人”によるライブ演奏だった。


 進駐軍放送はラジオを持っている者であれば誰でも受信し聴くことができることから、日本におけるジャズ、特にスウィングジャズの普及に多大な貢献をした。一方、米軍の娯楽施設はもちろん米軍関係者を相手にするし、ダンスホールはダンスフリークがメインだ。


〈日本の戦後ジャズ状況を考えるとき、演奏場としての米軍関係のクラブにも触れなければならない。連合軍(主に米軍だった)による日本占領開始から朝鮮戦争直後までの間に、プロをめざしていた日本人のジャズ・ミュージシャンで、このようないわゆる「進駐軍クラブ」での仕事を経ていない者はほとんどいないと断言できる。アメリカによる占領と日本の戦後ジャズの発展は密接な関係にあった〉(戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ)


 夕方、東京の主な駅に日本人ジャズメンが楽器を手に集ってくる。手配師が東京や神奈川の米軍基地の名を連呼し楽器を持った男たちから選んでトラックに乗せる。日本人ジャズメンは連れていかれた進駐軍クラブで夜通し演奏し、トラックに乗って東京へと帰っていく。財布には当時の日本人では得られないような金額の現金を入れて。


 ジャズは戦後を生き抜くため、生き残るため、巧拙は別として楽器が演奏できる者が日々の糧が得られるチャンスだった。


〈そしてその時代にゲイ・クインテットを結成したピアノのフランシスコ・キーコとクラリネットのレイモンド・コンデというフィリピン人ミュージシャン(2人とも戦前から日本に在住していた)や、ジェームス荒木というハワイ出身の日系人米軍通訳兼サックス奏者のような「アジア系」ジャズ・ミュージシャンたちの貢献も忘れてはいけない。(中略)キーコとコンデは主にスウィング・スタイルを、荒木は当時新しいビバップを、戦時中ジャズから隔てられた日本のミュージシャンたちに紹介、指導することによって、戦後初期の日本のジャズの発展に欠かせない存在だった〉(同前)


 ここで注目してほしいのが「荒木は当時新しいビバップを」のくだりだ。ビバップは1940年代に発生した革新的ジャズの名称である。詳しくは次回に紹介するが、スウィングジャズをなんとかこなし始めた日本の若手ジャズメンの前に、スウィングジャズは過去のものと言わんばかりに、新しいジャズが出現した。


〈第12回・了〉 


参考文献:

1) 『ムッシュ!』(日経BP社。200292日初版第1刷)

2) 戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ(マイク・モラスキー。岩波現代文庫。2017516日第1刷発行)

3) 『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(村井康司。シンコーミュージック・エンタテイメント。2017106日初版発行)




# by toshi58asahi | 2021-10-31 09:36 | Comments(0)

第11回●大正時代にジャズは日本に上陸した

キーワード: 金持ちの道楽息子/ダンスホール/二村定一/ディック・ミネ


 今回は当ブログのタイトル「日本人にとってのジャズ」の本質に迫る、日本にはいつごろジャズが上陸したかがテーマである。見出しに「大正時代」と掲げている通り、大正年間であるという説が有望だ。


 その説では、大正10年、すなわち1921年、政治家である父親の秘書として米国に渡った大学生、菊池滋彌が帰国時にディキシーランドジャズのレコードを持ち帰ったのが、日本へのジャズの初上陸という。


 前回、ニューオリンズで誕生したジャズが本拠地を追い出されて、シカゴやカンサスシティーを経てニューヨークへ大移動し、本格的なスウィングジャズへ発展したことを紹介した。


 追い出されたのが1917年。それからわずか4年後に日本にジャズのレコードを持ち込んだ日本人がいたとすれば、100年前の世界における情報の伝播速度はなかなかのもんだ、と言えると思うが、どうだろう。


 モダンジャズ評論では右に出る者がいない、が、後半生はロック評論家として人生を全うした相倉久人は、『ニッポン・ポップス・クロニクル1969-1989』で次のように日本のジャズの黎明期を説明している。


〈大正の頃はアメリカでもジャズが生まれたばかりで、要するにその時代に日本人でジャズをやっていたのは、ほとんどは金持ちの道楽息子。アメリカに遊びに行けるような連中。そういう連中がアメリカでゴロをまいて、向こうで出たばかりのレコードを聴いて、こんなすごいものがあるぞ、と。で、真似をし始めた〉


 米国に渡った大学生、菊池がまさにそういう道楽息子だったわけだ。真似をするとは実際にジャズを演奏するということだ。菊池が作ったバンドは「菊池滋彌レッド&ブルー・クラブ楽団」である。


ちなみに「ゴロをまく」というスラングはやくざや不良の間で「喧嘩をする」という意味だが、この文脈では意味が通らない。「くだをまく」でもない。要するに言い間違いで、「遊学していた」ということを言いたかったんだろうな。相倉が現役のジャズ評論家だった196070年代は、ジャズメンは音楽界、芸能界ではまともな人種と思われていなかったという。簡単に「ゴロをまく」という言い方が出るのも理解できる。失礼、どうでもいいことです。


 画期的なジャズ評論書の『戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ』で著者のマイク・モラスキーは、ジャズらしき音楽が日本にいつ上陸したかは定かでないがと前置きし、次のように記す。


〈大正中期にはいわゆるダンス熱が大都会で広がり、関東大震災後の大阪や神戸中心の「カフェ」(つまり、ダンスホール)で、「ジャズ」と呼ばれる音楽に合わせてモガとモボたちが踊りふけっていたことは周知のとおりである。(中略)ジャズが全国に浸透しはじめたのは昭和初期からであり、やはりその普及の主なきっかけはレコードや映画などの近代メディアの発達だった〉


 そのレコードもほとんどは輸入盤だったが、「二村定一」という歌手が1928年(昭和3年)に、外国のジャズ楽曲のカバー、『青空(My Blue Heaven)』や『アラビヤの唄(Sing Me a Song of Araby)など、歌詞を日本語に訳したジャズソングを発表した。


 これが、金持ちの道楽息子の”手慰み“や、モボやモガという”尖った“連中だけの音楽が、一般大衆へ広がるきっかけになった。モラスキーは、この翌年に本郷赤門前に「ブラックバード」、新橋に「デュエット」という日本初と思われるジャズ喫茶が生まれたと記す。続けて…


〈レコードによるジャズのおかげで、1930年代半ばまでに新しいダンスホールが次々と現れた。京橋の「銀座ダンスホール」や赤坂の溜池ホールの3階を占める有名な「フロリダ」など、ダンスホールが国内の大都会に限らず、地方にも、朝鮮半島や満州などの植民地にも現れた〉


 この頃から演奏されるジャズがニューオリンズで誕生したオールドスタイルのディキシーランドジャズから次第に、当時シカゴで誕生した「スウィングジャズ」に置き換わっていった。


 先ほどの日本におけるジャズのパイオニアの1人である菊池滋彌はプロに転向して、昭和8年(1933年)、フロリダの専属バンド「フロリダ・オーケストラ」を率いて活躍し始めた。


昭和9年(1934年)、ジャズナンバー『ダイナ』で「ディック・ミネ」がデビューした。ディック・ミネも先ほどからたびたび記す金持ちの道楽息子の1人で、立教大学在学中にジャズバンド「ハッピーナイン」を作って、プロ顔負けに「日米ダンスホール」や「和泉橋ダンスホール」などで演奏者兼歌手として活躍していた。その延長でデビューしたわけだが、ディック・ミネの場合、歌手だけでなく、歌詞の日本語訳、編曲まで行った。


 翌昭和10年(1935年)に入ると本格的に歌手活動をスタートし、毎月新譜レコードを発売する状態になった。いわゆる流行歌も多かったが、『セントルイス・ブルース』や『恋人よ我に帰れ』などスタンダードナンバーも歌っている。その一方で、「ディック・ミネ&ヒズセレナ―ダス」でダンスホールやホテルの人気バンドとなった。


 歌手としては二村やディック・ミネのほか、淡谷のり子、川畑文子、日系アメリカ人のベティ稲田、中野忠晴などがいた。コーラスグループには中野率いるコロンビア・ナカノ・リズムボーイズが有名だ。


〈しかし、当時本格的なジャズに接したいと思っていた日本人ミュージシャンたちは、上海に渡りたがったようである。「東洋のジャズの都」として知られていた上海は、(中略)1920年代後半から1930年代までの日本のジャズ界では、「上海帰り」のミュージシャンが最ももてはやされ、高給取りでもあった。(中略)確かに南里文雄や服部良一など、上海帰りのミュージシャンが後の日本のジャズ史に少なからず影響を及ぼしたことは否定できないだろう〉


 最後はなんとなく皮肉な物言いだ。南里文雄は戦前のミュージシャンの中でも後年に名を残しているディキシーランドジャズの名トランぺッターだが、戦後のジャズ界では“過去の人”だ。


 服部良一は作曲家としてジャズの要素を流行歌に取り入れて、都会的な流行歌をいくつも作っているが、ことジャズに関しては距離を取った。戦後、復活したのは「ブギウギ」というジャズの1つのリズムを切り取って流行歌に活用したもの。ジャズの演奏者または作曲家としての存在は認識されていない。


 淡谷のり子も優れたジャズシンガーだったが、「ブルースの女王」と呼ばれる歌い手になってからは、妙なファルセットで流行歌を歌うようになった。


ちなみに、ブルースとは言っても、米国のブルースとは似ても似つかない“物憂い”イメージだけを取り出して、日本の流行歌に換骨奪胎してもの。これがその後、流行歌の1つのジャンルとなり、昭和40年代に大きく開花。私もそれにどっぷり浸かったのだ。


 ディック・ミネもジャズ歌手から流行歌手に変身し、いわゆる“股旅物”も歌うようになった。


 これは今でも同じ状況だが、日本では本格的ジャズは一部のファンだけのものであり、したがって、ジャズ専門のシンガーやミュージシャンは、“食べるために”流行歌に関わらざるを得ないということなのだろう。


 以前の回で説明した青江三奈や八代亜紀、森山良子、南佳孝、JUJUなどもそもそもはジャズシンガー志望だったのが、歌謡曲やポップスで成功を収めた例だ。


 それはともかく、日本のジャズは昭和10年代に入ると大きな苦難の壁にぶち当たる。モラスキーが説明する。


193777日の「盧溝橋事件」が日中戦争に火をつけたが、それ以降上海のジャズ状況は衰え、日本国内の軍国主義による風俗の取り締まりも厳しくなった。1940111日から日本全国のダンスホールに対する閉鎖命令が施行された。そして翌年の真珠湾攻撃以降、アメリカを代表する音楽としてジャズが「敵性音楽」のレッテルを貼られ、ジャズ・ミュージシャンもファンもさらに苦しい時代に入っていった〉


 戦争は昭和20年(1945年)815日に終わった。そしてジャズは革命的とも言える発展を遂げる。その部分について、モラスキーは非常に重要な示唆を行っている。


〈あらためて言うまでもないかもしれないが、1920年代末期から1930年代半ばまでの「戦前のジャズブーム」は、戦後初期の「ジャズ黄金時代」と共通あるいは連続している側面が多い。ひとつは、「ジャズ」という音楽自体が西洋風の大衆歌一般を指すことである。(中略)そして、戦前にも戦後初期にも、ジャズは基本的にダンスミュージックだったことも過小評価してはいけないし、歌詞(とくに日本語の歌詞)がついたジャズ曲が一番人気を集めたことも注目に値する〉


ジャズは西洋風大衆歌一般を指す→これはよく知られていることで、特に戦後はハワイアンもラテン音楽もカントリーミュージックも「ジャズ」と呼ばれていた。


ジャズはダンスミュージック→とはいえ、ダンスが踊れるのはスウィングジャズまでで、1940年代後半に始まる「ビバップ」はダンスが踊れないジャズだった。


歌詞がついたジャズ曲が一番人気→ジャズには歌手が中心の歌唱付きと、演奏のみのものがある。ビバップから始まる「モダンジャズ」は演奏のみで“聴くだけ”のジャズである。


 戦後の日本のジャズは、すなわちスウィングジャズだ。日本はジャズ全盛時代に突入した。


〈第11回・了〉


参考文献:

1) ニッポン・ポップス・クロニクル1969-1989(牧村憲一。スペースシャワーブックス。2013327日初版発行)

2) 戦後日本のジャズ文化—映画・文学・アングラ(マイク・モラスキー。岩波現代文庫。2017516日第1刷発行)

3) 八方破れ言いたい放題(ディック・ミネ。政界往来社。198538日第1刷発行、同617日第8刷発行)




# by toshi58asahi | 2021-10-24 07:39 | Comments(0)