2026年 02月 05日
第93回「その後の『新宿スイング』」
【そして文化祭へ 第一章 吹奏楽部】第一回 アメリカン・パトロール
神奈川県立森山高等学校の一九七五年一学期の期末試験が、七月九日の水曜日から十一日の金曜日の三日間にわたって行われた。演劇部と吹奏楽部の部員たちは試験が終わる十一日の放課後を待ちわびていた。
◆◇
「すみません! 遅くなって」。音楽室に二年生の下条佳世が駆け込んできた。
「また何かの情報を探っていたの?」。部長の岸臨太郎とともに数少ない三年生である深見圭子がそう皮肉った。
「圭子先輩、私、そんなに暇じゃないですよ。ただ、クラスの仲のいい子が彼氏に振られそうだっていうから、みんなでしかえしを考えていたんです」
「こええな。それが暇だってえの」。二年の佐々木道徳が混ぜっ返した。吹奏楽部の部員全員が笑った。佳世も一緒に照れ笑いした。
「みんな、やっと本腰を入れて練習できるね」。臨太郎が言った。
「そこで、今日は夏休み中の練習スケジュールと内容を打ち合わせしたいと思います。まとまったら水沼先生に提案して修正があったら直してみんなに報告します。さっきからみんな見ていたけど、こんなスケジュールを考えています」と黒板を指さした。
黒板の右側から七月二十日から八月二十四日まで毎日曜日を中心に、カレンダーを書き込んである。
「八月十三日が盆の入りで十六日が盆明けです」。迎え火と送り火だよね、と男子生徒が言うと、うちもまだそんなことやってんのよ、と女子生徒が溜息交じりに答えたので、音楽室が苦笑に包まれた。
「そういうことだから、吹奏楽部の練習もこの期間は休みます。練習は日曜日のジャズ講座中心に進めます。課題となっている曲を日曜日までの期間、学校で徹底的に練習して自分のものにする。だから、例えば講座初日の七月二十日までに、グレン・ミラーの『アメリカン・パトロール』を吹奏楽部で演奏できるようにする。それはある意味でりんさんと丈二さん、面倒臭いからこれからはコーチと呼びますが、コーチに向けての僕たちのアピールです。自分たちだけでこれだけジャズが演奏できるということを見せる場になるのです。先日は僕たちの『アクエリアス』は高評価でしたが、ジャズは未知数です。『だめだ、やめな』と言われるかもしれない。それは絶対に受け入れられない。コーチに絶対、『教え甲斐がありそうだ』と思わせなければならない」
ここで臨太郎は言葉を切って、部員たちの顔を見回した。日頃の臨太郎とは違う雰囲気に、部員たちの表情も次第に真剣になっていった。
「だから、七月二十日は僕たちのオーディションだと思ってほしい。『アメリカン・パトロール』はその課題曲だ。明日から終業式の土曜日まで、この一曲を徹底的に練習する。もちろん日曜日は休みだ。いいね?」。部員たちは大きくうなずいた。
書紀役の二年生、篠原真理子副部長が黒板の七月二十日の下に「オーディション 課題曲『アメリカン・パトロール』」と書き込んだ。それを見た何人かの部員がゴクンと唾を飲み込んだ。
「その次の日からは、毎日曜日に向けて学校で週三日間練習する。原則的に月、水、金曜日だ」
毎日しないんですか?という声が上がった。
「しない。毎日はやり過ぎだと思う。吹奏楽部は君たちの生活の中で大きな位置を占めていると思うけど、全てではない。ただし、自主練は自由だ」と答えた。
吹奏楽部の練習は新宿での日曜ジャズ講座を中心に回る。日曜日にはそれまでの学校での練習結果を発表し、コーチの指導を受ける。そして、次の講座に発表するための課題が出る。
「それから、毎日の練習時間だけど朝九時から夕方五時まで、これを厳守する。早朝も居残りも認めない。それは健康管理のためだ。体調を崩して練習ができなくなるのが心配だ。ここまではいいですか?」。みんなうなずいた。
◆◇
「それから、これは三年生からのお願いですが、僕も圭子も大学進学を希望しています。希望してるからって、大学側が入学していいよって言ってくれなきゃだめだけどさ」。何人かがクスッと笑った。
「それで、少しは受験勉強もしなければならない。その時間を作るために、これまで僕がトランペットパートのリーダー、圭子がトロンボートのリーダーをやってきたけど、それを辞めて次の人に引き継ぎたいと思います。これは圭子に了解済みです」。圭子がうなずいた。
「だから、次のリーダーについては各パートで話し合いましょう。サックスは変わらず真理子、クラリネットも特にリーダーはなしです。そして、バンドマスターは僕がやらせてもらいます」
「それじゃ全然時間が取れないんじゃないんですか?」。二年生の秋山仁が言った。
「それは大丈夫。というか、勉強の時間を削ってもジャズのバンマスをやりたい、ということなんです。いいですか、みんな」
音楽室に「異議なし」の声が挙がり拍手が起きた。
「次に決めたいのは曲目です。グレン・ミラーということですが、ちょっと提案したいことがあります。これまで聴いてきた通り、ジャズの場合、途中のアドリブソロではトランペットとサックスが多いのですが、うちの部にはトロンボーンもクラリネットもありますので、その楽器のソロもある曲目も入れたいので、グレン・ミラー以外のバンドも入れたいと思います。まずはトランペットとトロンボーンのパートリーダーを選んでください」
簡単に決まった。どちらも二年生で、トランペットは湯村真奈美、トロンボーンは栗原秀太だ。
次は曲目だ。
グレン・ミラーは『イン・ザ・ムード』と『ムーンライト・セレナーデ』に決まった。
その他のバンドの曲は多少揉めたが、ベニー・グッドマンは『レッツ・ダンス』、デューク・エリントンは『テイク・ジ・Aトレイン』、カウント・ベイシーは『ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド』となった。この六曲を夏休み中に会得する。いや、実質は七月二十七日、八月三日、十日、二十四日の四回しかないから、二曲は補欠となる。
「毎日曜日の講座に向けて、一週間、一曲を徹底的に練習します。不完全でもいいので、とにかく演奏してみる。暗譜できるぐらいその曲にのめり込みます。その他のことは考えない。それを講座で披露する。そして、次の課題曲をコーチを含めてみんなで決める。それでどうだろうか」
真理子が「いいと思います。みんなはどう?」と聞くと、反対する部員はいなかった。
「反対に私たち二年生と一年生から三年生のお二人にお願いがあるんです」
それに圭子が反応した。「何? 何よ?」。
真理子が説明した。圭子と臨太郎は顔を見合わせた。
◆◇
翌七月十二日、土曜日、前日に顧問のかおりに夏休みの練習スケジュールと内容を提案し、承諾を得た上で、吹奏楽部のジャズ練習が本格的に始まった。かおりも参加した。
「実際に演奏する前に、簡単にジャズの基本について説明しておきたいと思います。既に個人的にジャズの教則本で勉強し始めている人もいると思いますが、とりあえず全員で基本を学んでおきましょう。説明するのは不肖、岸臨太郎。水沼先生を差し置いておこがましいですが、ジャズに関しては少しは知識があるので、やらせていただきます。オーケーですか?」
オーケーでーす、という声がかおりを含めて全員から上がった。
◆◇
「スウィングジャズは一九三〇年代から一九四〇年代にアメリカで大流行したダンス音楽です。聴くだけの音楽でなく、聴きながら踊る音楽というところが重要な部分です。丈二さんはそれを歌う歌手として来日しました。戦争のせいで一度アメリカに帰って、終戦後、通訳として再び日本にやってきて、僕のばあちゃん、真上りんを人気ジャズシンガーに育て上げました。なんだか身内のことを説明するのは照れますね」
音楽室内にクスクス笑いが広がった。
「ジャズのもともとの始まりはアメリカ南部の綿を栽培する農園で働かされていた黒人奴隷が歌った、つらい労働を忘れるための労働歌、ワークソングだと言われています。それは黒人奴隷が生まれ育ったふるさとであるアフリカ大陸の西部、西アフリカの民族音楽でした。そして、それはアメリカの支配者層である白人がふるさとであるヨーロッパ大陸から持ち込んだ音楽とは全く違うものだったのです。先生、ヨーロッパ音楽の調性を僕らは音楽の時間に学んでるんですよね?」
急に聞かれたかおりは、「そ、そうね。『調性』というのは基本的に二つに分かれていて、明るい感じに聴こえる『長調』もしくは『長音階』と、悲しい感じに聴こえる『短調』もしくは『短音階』があるわ。みなさんには言うまでもないことだけど」と答えた。
それを受けて臨太郎は、「でも、黒人奴隷たちが歌うアフリカの音楽は、この規則に収まらなかった。例えば…先生、手伝ってもらえますか?」と言った。
「ん? 何をすればいいの?」
「ピアノをお願いします」
かおりがグランドピアノの前に座った。
「ハ長調でドレミファソラシの七音を弾いてください」
「そして、次はミとソとシを半音上げた音をプラスして十音を弾いてください」
かおりが弾くと、おお、という声があちこちから上がった。
「これが『ブルーノート』というジャズの基本中の基本の調性です。『ブルー』は英語で『憂鬱』を意味します。今日、私ちょっとブルーなの、とか言いますよね。僕は言いませんが」
当たり前でーす、という突っ込みが入った。
「で、この調性を使った音楽のことを白人は『ブルース』と名付けました。でも、悲しく憂鬱な音階は本来は短調ですよね。ブルーノートは長調でも短調でもない、すなわち、明るくもあり悲しくもあり、逆に言えば、明るくもなく悲しくもない調性なのです。ここまではいいですか?」
いいでーす、と全員が答えた。
「ブルーノートはジャズの重要な構成要素です。が、全てのジャズがブルーノートとは言えない。ブルーノートを使わない曲目や演奏もたくさんあります。ちなみに、ブルースはジャズとともにアメリカ音楽の大きなジャンルの一つです。ブルースはポップス音楽には欠かせないもので、特にロックはブルースがなければ誕生しなかったともいわれています」
◆◇
「みなさん、起立してください。そしてこのペースで手を打ち鳴らしてください」と言って臨太郎が打ち鳴らし始めた。全員が一定の拍子で打ち鳴らす。
「これが『ビート』です。そのまま続けてください」
いち、に、いち、にとビートを刻んでいる。臨太郎はそのいちとにの間に拍子を入れた。
「はい、ストップ。行進曲が一番分かりやすいですが、ヨーロッパの音楽は四拍子の場合、一拍目と三拍目にアクセントを置きます。これがオンビートです。しかし黒人奴隷が母国から持ち込んだビートは二拍目と四拍目にアクセントを置きます。オフビートとかアフタービートと呼ばれます。コントラバスの秋山君、ドラムスの根来君、楽器を用意してください」
突然指名された二人は戸惑いながらも、いつものポジションについた。
「では、ビートを再開します。それに合わせてというか、そのビートの間をオフビートで刻んでください。秋山君、メロディーは任せます」
部員全員による手拍子が再開された。二人は顔を見合わせてしばらく悩んでいたが、せい、の、でビートを刻み始めた。初めこそぎこちなかったが、しばらくすると心地よいビートが続くようになった。臨太郎は手拍子をストップさせたが、二人にはしばらく続けさせた。
「ありがとう。ストップしてください。ビートを安定的に刻む大事なベースで、それに乗って縦横無尽にリズムを叩き出すのがドラムスです。それにピアノが加わったのがジャズのリズムセクション。バンド全体が同じリズムとスピードで突っ走るための要です。当然、楽器だけでなく歌も後拍です。アクセントを後ろの拍にずらしている。こないだのりんさんの歌がそうでしたよね」と一気に言った。
続けて「ジャズのビートは四拍子、フォービートです。そしてアクセントを後の拍にずらしているアフタービートです。同じジャズでも八拍子、エイトビートがあります。それはクロスオーバーミュージックと言って、ロックと融合した新しいジャズです。一九六九年にマイルス・デイビスが始めたと言われています。僕たちにとってお馴染みのポップスの多くはエイトビートなので、今さら説明の必要はありませんね」と説明した。
部員がうなずくと「アフタービートとともにジャズに重要なのが『シンコペーション』です。これもみなさんには説明する必要はありませんね。ところがジャズではシンコペーションが重要な“味付け”なのです。曲のリズムの進行において、本来のアクセントとは違う場所にアクセントを置くと、通常とは違うリズムの“ノリ”が生まれます。アフタービートとシンコペーションが生み出すものがスウィング感、聴くと体が自然に動き出してしまうようなリズム感なのです」と続けた。
話し終わって臨太郎は、ハアと息をついた。疲れた。
ちょっと間が空いて、音楽室中、歓声と拍手が渦巻いた。臨太郎が驚いていると、かおりが拍手しながら近付いてきて、「あなた、私の仕事を奪うつもり? でも安心。高校の音楽の授業ではジャズはやらないから」と言った。
参考文献:
『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・キーワード編』菊地成孔、大谷能生、文春文庫、 二〇〇三年三月一〇日第一刷)

