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旭利彦の「日本人にとってのジャズ」

第93回「その後の『新宿スイング』」

【そして文化祭へ 第一章 吹奏楽部】第一回 アメリカン・パトロール


神奈川県立森山高等学校の一九七五年一学期の期末試験が、七月九日の水曜日から十一日の金曜日の三日間にわたって行われた。演劇部と吹奏楽部の部員たちは試験が終わる十一日の放課後を待ちわびていた。


◆◇


「すみません! 遅くなって」。音楽室に二年生の下条佳世が駆け込んできた。


「また何かの情報を探っていたの?」。部長の岸臨太郎とともに数少ない三年生である深見圭子がそう皮肉った。


「圭子先輩、私、そんなに暇じゃないですよ。ただ、クラスの仲のいい子が彼氏に振られそうだっていうから、みんなでしかえしを考えていたんです」


「こええな。それが暇だってえの」。二年の佐々木道徳が混ぜっ返した。吹奏楽部の部員全員が笑った。佳世も一緒に照れ笑いした。


「みんな、やっと本腰を入れて練習できるね」。臨太郎が言った。


「そこで、今日は夏休み中の練習スケジュールと内容を打ち合わせしたいと思います。まとまったら水沼先生に提案して修正があったら直してみんなに報告します。さっきからみんな見ていたけど、こんなスケジュールを考えています」と黒板を指さした。


 黒板の右側から七月二十日から八月二十四日まで毎日曜日を中心に、カレンダーを書き込んである。


「八月十三日が盆の入りで十六日が盆明けです」。迎え火と送り火だよね、と男子生徒が言うと、うちもまだそんなことやってんのよ、と女子生徒が溜息交じりに答えたので、音楽室が苦笑に包まれた。


「そういうことだから、吹奏楽部の練習もこの期間は休みます。練習は日曜日のジャズ講座中心に進めます。課題となっている曲を日曜日までの期間、学校で徹底的に練習して自分のものにする。だから、例えば講座初日の七月二十日までに、グレン・ミラーの『アメリカン・パトロール』を吹奏楽部で演奏できるようにする。それはある意味でりんさんと丈二さん、面倒臭いからこれからはコーチと呼びますが、コーチに向けての僕たちのアピールです。自分たちだけでこれだけジャズが演奏できるということを見せる場になるのです。先日は僕たちの『アクエリアス』は高評価でしたが、ジャズは未知数です。『だめだ、やめな』と言われるかもしれない。それは絶対に受け入れられない。コーチに絶対、『教え甲斐がありそうだ』と思わせなければならない」


 ここで臨太郎は言葉を切って、部員たちの顔を見回した。日頃の臨太郎とは違う雰囲気に、部員たちの表情も次第に真剣になっていった。


「だから、七月二十日は僕たちのオーディションだと思ってほしい。『アメリカン・パトロール』はその課題曲だ。明日から終業式の土曜日まで、この一曲を徹底的に練習する。もちろん日曜日は休みだ。いいね?」。部員たちは大きくうなずいた。


 書紀役の二年生、篠原真理子副部長が黒板の七月二十日の下に「オーディション 課題曲『アメリカン・パトロール』」と書き込んだ。それを見た何人かの部員がゴクンと唾を飲み込んだ。


「その次の日からは、毎日曜日に向けて学校で週三日間練習する。原則的に月、水、金曜日だ」


 毎日しないんですか?という声が上がった。


「しない。毎日はやり過ぎだと思う。吹奏楽部は君たちの生活の中で大きな位置を占めていると思うけど、全てではない。ただし、自主練は自由だ」と答えた。


吹奏楽部の練習は新宿での日曜ジャズ講座を中心に回る。日曜日にはそれまでの学校での練習結果を発表し、コーチの指導を受ける。そして、次の講座に発表するための課題が出る。


「それから、毎日の練習時間だけど朝九時から夕方五時まで、これを厳守する。早朝も居残りも認めない。それは健康管理のためだ。体調を崩して練習ができなくなるのが心配だ。ここまではいいですか?」。みんなうなずいた。


◆◇


「それから、これは三年生からのお願いですが、僕も圭子も大学進学を希望しています。希望してるからって、大学側が入学していいよって言ってくれなきゃだめだけどさ」。何人かがクスッと笑った。


「それで、少しは受験勉強もしなければならない。その時間を作るために、これまで僕がトランペットパートのリーダー、圭子がトロンボートのリーダーをやってきたけど、それを辞めて次の人に引き継ぎたいと思います。これは圭子に了解済みです」。圭子がうなずいた。


「だから、次のリーダーについては各パートで話し合いましょう。サックスは変わらず真理子、クラリネットも特にリーダーはなしです。そして、バンドマスターは僕がやらせてもらいます」


「それじゃ全然時間が取れないんじゃないんですか?」。二年生の秋山仁が言った。


「それは大丈夫。というか、勉強の時間を削ってもジャズのバンマスをやりたい、ということなんです。いいですか、みんな」


 音楽室に「異議なし」の声が挙がり拍手が起きた。


「次に決めたいのは曲目です。グレン・ミラーということですが、ちょっと提案したいことがあります。これまで聴いてきた通り、ジャズの場合、途中のアドリブソロではトランペットとサックスが多いのですが、うちの部にはトロンボーンもクラリネットもありますので、その楽器のソロもある曲目も入れたいので、グレン・ミラー以外のバンドも入れたいと思います。まずはトランペットとトロンボーンのパートリーダーを選んでください」


 簡単に決まった。どちらも二年生で、トランペットは湯村真奈美、トロンボーンは栗原秀太だ。


 次は曲目だ。


 グレン・ミラーは『イン・ザ・ムード』と『ムーンライト・セレナーデ』に決まった。


その他のバンドの曲は多少揉めたが、ベニー・グッドマンは『レッツ・ダンス』、デューク・エリントンは『テイク・ジ・Aトレイン』、カウント・ベイシーは『ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド』となった。この六曲を夏休み中に会得する。いや、実質は七月二十七日、八月三日、十日、二十四日の四回しかないから、二曲は補欠となる。


「毎日曜日の講座に向けて、一週間、一曲を徹底的に練習します。不完全でもいいので、とにかく演奏してみる。暗譜できるぐらいその曲にのめり込みます。その他のことは考えない。それを講座で披露する。そして、次の課題曲をコーチを含めてみんなで決める。それでどうだろうか」


 真理子が「いいと思います。みんなはどう?」と聞くと、反対する部員はいなかった。


「反対に私たち二年生と一年生から三年生のお二人にお願いがあるんです」


 それに圭子が反応した。「何? 何よ?」。


 真理子が説明した。圭子と臨太郎は顔を見合わせた。


◆◇


 翌七月十二日、土曜日、前日に顧問のかおりに夏休みの練習スケジュールと内容を提案し、承諾を得た上で、吹奏楽部のジャズ練習が本格的に始まった。かおりも参加した。


「実際に演奏する前に、簡単にジャズの基本について説明しておきたいと思います。既に個人的にジャズの教則本で勉強し始めている人もいると思いますが、とりあえず全員で基本を学んでおきましょう。説明するのは不肖、岸臨太郎。水沼先生を差し置いておこがましいですが、ジャズに関しては少しは知識があるので、やらせていただきます。オーケーですか?」


 オーケでーす、という声がかおりを含めて全員から上がった。


◆◇


「スウィングジャズは一九三〇年代から一九四〇年代にアメリカで大流行したダンス音楽です。聴くだけの音楽でなく、聴きながら踊る音楽というところが重要な部分です。丈二さんはそれを歌う歌手として来日しました。戦争のせいで一度アメリカに帰って、終戦後、通訳として再び日本にやってきて、僕のばあちゃん、真上りんを人気ジャズシンガーに育て上げました。なんだか身内のことを説明するのは照れますね」


音楽室内にクスクス笑いが広がった。


「ジャズのもともとの始まりはアメリカ南部の綿を栽培する農園で働かされていた黒人奴隷が歌った、つらい労働を忘れるための労働歌、ワークソングだと言われています。それは黒人奴隷が生まれ育ったふるさとであるアフリカ大陸の西部、西アフリカの民族音楽でした。そして、それはアメリカの支配者層である白人がふるさとであるヨーロッパ大陸から持ち込んだ音楽とは全く違うものだったのです。先生、ヨーロッパ音楽の調性を僕らは音楽の時間に学んでるんですよね?」


 急に聞かれたかおりは、「そ、そうね。『調性』というのは基本的に二つに分かれていて、明るい感じに聴こえる『長調』もしくは『長音階』と、悲しい感じに聴こえる『短調』もしくは『短音階』があるわ。みなさんには言うまでもないことだけど」と答えた。


 それを受けて臨太郎は、「でも、黒人奴隷たちが歌うアフリカの音楽は、この規則に収まらなかった。例えば…先生、手伝ってもらえますか?」と言った。


「ん? 何をすればいいの?」


「ピアノをお願いします」


 かおりがグランドピアノの前に座った。


「ハ長調でドレミファソラシの七音を弾いてください」


「そして、次はミとソとシを半音上げた音をプラスして十音を弾いてください」


 かおりが弾くと、おお、という声があちこちから上がった。


「これが『ブルーノート』というジャズの基本中の基本の調性です。『ブルー』は英語で『憂鬱』を意味します。今日、私ちょっとブルーなの、とか言いますよね。僕は言いませんが」


当たり前でーす、という突っ込みが入った。


「で、この調性を使った音楽のことを白人は『ブルース』と名付けました。でも、悲しく憂鬱な音階は本来は短調ですよね。ブルーノートは長調でも短調でもない、すなわち、明るくもあり悲しくもあり、逆に言えば、明るくもなく悲しくもない調性なのです。ここまではいいですか?」


 いいでーす、と全員が答えた。


「ブルーノートはジャズの重要な構成要素です。が、全てのジャズがブルーノートとは言えない。ブルーノートを使わない曲目や演奏もたくさんあります。ちなみに、ブルースはジャズとともにアメリカ音楽の大きなジャンルの一つです。ブルースはポップス音楽には欠かせないもので、特にロックはブルースがなければ誕生しなかったともいわれています」


◆◇


「みなさん、起立してください。そしてこのペースで手を打ち鳴らしてください」と言って臨太郎が打ち鳴らし始めた。全員が一定の拍子で打ち鳴らす。


「これが『ビート』です。そのまま続けてください」


 いち、に、いち、にとビートを刻んでいる。臨太郎はそのいちとにの間に拍子を入れた。


「はい、ストップ。行進曲が一番分かりやすいですが、ヨーロッパの音楽は四拍子の場合、一拍目と三拍目にアクセントを置きます。これがオンビートです。しかし黒人奴隷が母国から持ち込んだビートは二拍目と四拍目にアクセントを置きます。オフビートとかアフタービートと呼ばれます。コントラバスの秋山君、ドラムスの根来君、楽器を用意してください」


 突然指名された二人は戸惑いながらも、いつものポジションについた。


「では、ビートを再開します。それに合わせてというか、そのビートの間をオフビートで刻んでください。秋山君、メロディーは任せます」


部員全員による手拍子が再開された。二人は顔を見合わせてしばらく悩んでいたが、せい、の、でビートを刻み始めた。初めこそぎこちなかったが、しばらくすると心地よいビートが続くようになった。臨太郎は手拍子をストップさせたが、二人にはしばらく続けさせた。


「ありがとう。ストップしてください。ビートを安定的に刻む大事なベースで、それに乗って縦横無尽にリズムを叩き出すのがドラムスです。それにピアノが加わったのがジャズのリズムセクション。バンド全体が同じリズムとスピードで突っ走るための要です。当然、楽器だけでなく歌も後拍です。アクセントを後ろの拍にずらしている。こないだのりんさんの歌がそうでしたよね」と一気に言った。


続けて「ジャズのビートは四拍子、フォービートです。そしてアクセントを後の拍にずらしているアフタービートです。同じジャズでも八拍子、エイトビートがあります。それはクロスオーバーミュージックと言って、ロックと融合した新しいジャズです。一九六九年にマイルス・デイビスが始めたと言われています。僕たちにとってお馴染みのポップスの多くはエイトビートなので、今さら説明の必要はありませんね」と説明した。


部員がうなずくと「アフタービートとともにジャズに重要なのが『シンコペーション』です。これもみなさんには説明する必要はありませんね。ところがジャズではシンコペーションが重要な“味付け”なのです。曲のリズムの進行において、本来のアクセントとは違う場所にアクセントを置くと、通常とは違うリズムの“ノリ”が生まれます。アフタービートとシンコペーションが生み出すものがスウィング感、聴くと体が自然に動き出してしまうようなリズム感なのです」と続けた。


 話し終わって臨太郎は、ハアと息をついた。疲れた。


 ちょっと間が空いて、音楽室中、歓声と拍手が渦巻いた。臨太郎が驚いていると、かおりが拍手しながら近付いてきて、「あなた、私の仕事を奪うつもり? でも安心。高校の音楽の授業ではジャズはやらないから」と言った。


参考文献:

『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・キーワード編』菊地成孔、大谷能生、文春文庫、 二〇〇三年三月一〇日第一刷)



# by toshi58asahi | 2026-02-05 16:33 | Comments(0)

第92回「その後の『新宿スイング』」

【森山高校吹奏楽部 第五章 丈二と絹】第三回 帰って来てくれたらうれしいわ


 俺は二人を先導して喫煙小屋に行った。もともと農作業小屋だったけど、いつの間にか煙草場になった。


 小屋から出てきたのはラグビー部の奴だった。よお、と挨拶してきて俺の後ろを見て怪訝な顔をした。が、俺は後ろを振り向いて「ここです」と言った。


 絹さんは「これはまたオツだね」と言い、俺の横を通って自分の家のように入っていったよ、「こんにちは」と言いながら。誠二さんは通りがかりに俺の肩を叩いて、「悪い子だ」と言った。


 最後に俺が小屋に入ると、不良どもは小屋の片隅で縮こまっていた。


「灰皿はそこの一斗缶?」と絹に聞かれ、柔道部の奴は「そっす」と言って絹さんの前に一斗缶を運んだ。


「ありがと、気が利くわね」と言われて頭を掻いた。


「せいさん、十二社のあけぼの、思い出しちゃった」。不良どもを見回しながら言った。


「ああ」。誠治さんはうなずいて、「時代が変わっても、変わんねえもんがあるんだな」と笑った。


 絹さんがバッグから出した高そうな洋もくから一本を出して口に咥えると、「一本」と言って誠治さんも咥えた。絹さんの高級そうなライターで火を着けて、盛大に鼻の穴から煙を吹き出すんだぜ、二人とも。


 俺は他の不良とともに見とれちゃったね。


◆◇


 そんな話させるから、タバコ吸いたくなっちまった。


 何? 蓮子さん、せめて学ランは脱げって。外を歩いている人が見たらまずいでしょって。そりゃそうだ。おい良太。脱げ。臨太郎も脱げ。「僕は吸わないから」って、吸っている若造の横に学生服がいたらおかしいだろ。


 続き、って蓮子さんにせっつかれたろ、お前のせいで。


 不良どもは蛇に睨まれたカエル状態だった。さっきの柔道部が小声で俺を呼ぶんだよ。そばに言ったら「どこの人?」と聞いてきた。「新宿」と言ったら、「ああ」と言って、みんな納得していた。


黒のスーツの眼つきが鋭い男と、背筋がピッと通った女。どう見ても普通の職業には見えない。俺も知らなかったらそう思ったよ。


俺が一緒にいたから特にそう思ったって? 荒井、言ってくれるね。どこに極道の関係者を堂々と学校に連れてくる高校生がいるよ。


それで二人は二、三本、チェーンスモークして、絹さんが「ありがと。ニコチン充填できたわ」と言った。戻ろうというサインだ。


 不良どもに向かって「お邪魔様」と言って絹さんは出ていき、誠治さんは軽く頭を下げて出ていった。


 呆然とした顔の不良どもを見ながらドアを閉めた。


 蓮子さん、大丈夫かよ。ソファに突っ伏して痙攣してるぜ。荒井、何? 蓮子さんは笑い過ぎて止まんなくなっちゃったって。


 とにかく、俺たちは校舎に入ったら、廊下の向こうから臨太郎とりんさんと丈二さんがやってきた。


◆◇


 僕は演劇部の練習場所に行こうとしてた。せいさんと絹さんを迎えに行ったんだ。


 音楽室でりんさんや丈二さんと吹奏楽部員の顔合わせや、これからの練習スケジュールの打ち合わせをやっていたら、突然ドアがノックされて金井教頭が顔を出したんだ。


「お忙しいところすみません。今、通りかかったら大変けっこうな歌が聞こえたものですから。あっ!」と固まってしまった。りんさんを見たらしい。


「あ、あなたは真上りんさん。どうしてここにいらっしゃるのですか?」。声が裏返っていた。


 水沼先生が簡単に経緯を説明した。


 金井先生は大ファンだったらしい。「感激です。教頭の金井です。しかし、本校に来られたのにこんなところでお茶も出さないとは申し訳ありません。ぜひ校長室においでください」と言った。


 りんさんは僕を呼んで「臨太郎。校長室って煙草吸える?」って聞くから「たぶん」と答えた。


 するとりんさんは「金井先生。突然押しかけたのですから、そんなお気遣いいただかなくても。そうですか。打ち合わせもほとんど終わりましたから、甘えさせていただきます。丈二さん、行きましょ。みなさん、ではまた」と音楽室を出ていった。


 そして、せいさんと絹さんを迎えに行って、途中で真吾一行と会った。それで校長室に連れていった。校長は不在だった。


 すごかった。敗戦直後の強者たちが四人勢揃いして、煙草の煙をスッパスッパ天井に吹き上げているんだ。僕と水沼先生は校長室の窓を全開しなければならなかった。


金井先生がなんだかんだ言うんだけど、全然聞いてない。


 せっかくここまで来たんだから、帰りにどっか寄ってこうよ、中華街? 野毛? 鎌倉は何もないぜ、教頭先生もどうですか? そう、仕事が終わらない、残念だ、俺は飲みたいぜ、行きは俺が運転したんだから誰か代われよ、丈二、お前、肝機能気にしてたろ、酒止めろ、それで運転手役だ、そう、丈二は飲み過ぎだよ、絹さん、少しは控えさせた方がいいよ。


◆◇


 臨太郎の話が終わったが、ミントの中では良太、真吾、薫子、蓮子が笑い過ぎて呼吸困難になってのたうち回っていた。


「その後は分かるだろ。吹奏楽部と演劇部の部員全員と水沼先生、金井教頭、その他が不良老人を満載した深緑の外車…ジャガーって言うんだ…を盛大にお見送りして、どっと疲れた」


 四人が回復するのに少し時間が掛かった。臨太郎は窓の外を眺めていた。


「吹奏楽部の様子を聞いてないぞ」。一番早く回復した良太が聞いた。


 臨太郎は一部始終を簡潔に報告した。


「りんさんが歌ったのかよ。聴きたかったなあ。それから丈二さんのベース、メロディーを弾くのかよ」と悔しがると、薫子は「それもそうですが、岸さんの演奏って聴いてみたいです。歌も歌ったんですか? すごい」と言った。


「岸くん、聴かせてくれない?」。蓮子が言った。他の三人もうなずいた。


「ここでですか?」。臨太郎は面食らった。ジャズクラブの休憩中には、たびたびやらしてもらったが、喫茶店は初めてだし、なによりも全くのソロはやったことがない。


「そう。駄目?」


 考えた。この四人は自分の音楽を聴いたことがない。また、良太を除いて、他の三人はたぶんジャズも初めてだろう。つまり、先入観や固定観念が全くない。おととい、吹奏楽部のみんなや水沼先生が感じただろうジャズの素晴らしさを、みんなと同様に純粋に感じてもらえるのではないか。この人たちに感じてもらいたい。


「分かりました。少し時間をください」


 ケースからトランペットを出し、マウスピースを装着してから、しばらく目をつぶった。


 四人の方を向いてお辞儀をしてから、頭の中でカウントしておもむろに『ユードゥミーソーナイストゥーカムホームトゥー』でサックスが奏でるイントロをトランペットでスタートした。それに続くトランペットの短いパートを終え、ボーカルパートに入った。


 四人は目を丸くしている。


 ピアノのソロは、りんがやったのを真似てスキャットだ。


 次がトランペットのソロ。俺はクリフォード・ブラウンだ。


 短いサックスパートに続いてボーカルパート。


 最後の短いトランペットパート。


 臨太郎はいつの間にか目をつぶっていたらしい。


 ちょっと間を置いて盛大な拍手と歓声が巻き起こった。臨太郎は目を開けた。


「臨太郎、すげえよ、すげえ」


「岸さん、最っ高!」


「やるなあ、臨太郎!」


 蓮子も盛大に拍手をしている。


 気が付くと、窓の外には黒山の人だかりができていた。


 臨太郎はトランペットを持つ左手を背中に回して、右手のひらを胸に置いてお辞儀をした。再び路上のオーディエンスから盛大な拍手が巻き起こった。



◆◇


 オーディエンスが去り、臨太郎は四人に向かって「お粗末様」と言った。


 臨太郎は良太に「ヘレン・メリルとクリフォード・ブラウンの完全コピーだ。スキャットはりんさんの完全コピー。つまり、自分が全くない」とぼやいた。


 良太は「最初はそうなんじゃないの? 高校の吹奏楽部の部員がそういうふうに不満そうにするのは、嫌みだ」と返した。


 それまでずっと黙っていた蓮子が口を開いた。


「ところで何ていう曲なの?」


「『ユードゥビーソーナイストゥーカムホームトゥー』です」臨太郎が答えた。


「日本語では?」


「たぶん、『帰ってきてくれたらうれしいわ』だと」


 その瞬間、蓮子は両手で顔を覆った。薫子はすぐに蓮子の横に行って手を擦り始めた。


 臨太郎はこの事態に当惑し、真吾を見て表情で尋ねた。が、真吾は人差し指を唇の前に立てるだけだった。良太は蓮子を見つめている。


 しばらくして顔を上げた蓮子は、寄り添っている薫子に「ありがと」と言ってから、臨太郎に向いて「好きな男がいたの。別れたんだけど、少し前に亡くなってたことを知ったの。君の歌を聴いたら、何だかその人を思い出して…」と寂しそうに笑った。


 真吾はウッウッとしゃくり上げてうるさい。


「鬼の目にも涙」臨太郎が言うと、「何度も何度もうるせえ」と毒づいた。


 その日は横須賀中央駅から良太と一緒に横浜方面の電車に乗り、金沢文庫で逗子方面に乗り換えて京浜逗子駅。逗子に家がある良太とそこで別れた。「今度は絶対うちに来いよ」と言う良太に手を振って国鉄逗子駅に向かった。


◆◇


「そうなの。いいことをしたね」


 一恵は微笑んだ。


 臨太郎が帰宅したのは夕方六時過ぎ。期末試験の勉強を少しやってから店に降りた。客が使った食器の片づけを手伝いをしながら、ミントの蓮子のことを話したのだ。


「この間も話に出てきた人でしょ。真吾くんの手当てを手際よくやったっていう。いろんな修羅場をくぐってきたんじゃないかな、分かんないけど。私たちもたろうの演奏を聴きたかったね。ね、父さん」


「うん。それって文化祭で聴けないのか?」


「そんなことできないよ。僕のコンサートじゃないんだから。うん? 来るの?」


臨太郎の質問に答えずに太は「残念だな。りんさんも『臨太郎のやつ、なかなかやるよ』って言ってたんだけどな」と言った。


「えっ? 父さん、りんさんと話したの?」


「ああ、今日、午後に電話があってな。お前はまだ帰ってないっていうと明日にでも電話をくれってさ」


「それで、父さんと母さん、文化祭に来るの?」


「ああ、せいさんと絹さんも行くってさ。もちろんりんさんと丈二さんもな」


「りんさんと丈二さんはもちろん招待するけど…」


「なんだ? 親に来てもらいたくないのか、お前は」。一恵の声が尖った。


 臨太郎は混乱していた。


「そうじゃなくて、中学で吹奏楽部に入ってから、いろいろな発表会や演奏会とか公演に誘っても来てくれなかったじゃん。それを急に来ると言われてもなあ」


「何だ、お前は。親に文句を言ってるのか? 一生懸命働いているから行きたくても行けなかったんだよ。父さん、やめよう、行くの。こんな子だとは思わなかった」とエプロンの裾で目尻を拭った。


「母さん、芝居が見え透いてるよ」と臨太郎が言うと、「バレた?」と舌を出した。


 母と子でふざけあっているのを冷ややかに見ていた太が、「まあ、行きたくても行けなかったのは本当だ。だから、高校最後に行きたいんだよ」と言った。


「うん。ぜひ来てほしい。でも、せいさんと絹さんはきついなあ。りんさんと丈二さんと四人が揃うとさらに…」。臨太郎の顔が暗くなった、いや、暗くして見せた。


「おとといの午後、四人が帰るまで吹奏楽部と演劇部は大変だったんだ。うちの部の大変さは、こっちから頼んだやってきてもらった大変さだけど、演劇部はうちの巻き添えだったんだ」


 真吾と良太に聞いた顛末を聴かせると、一恵は「あの不良老人どもの面倒臭さを思い知ったかって感じだね。演劇部の人たちにはいい迷惑だったろうけど。北条政子と源頼朝の参考になったかね」と笑った。


「すると、文化祭ではあの二人が出る芝居も見られるんだね。こりゃ六人うち揃って行かなきゃならないな、母さん」。太が言うと、「それにしても、校長室の四人の傍若無人ぶりは見たかったな。惜しいことをした。ね、父さん」と一恵が言った。


 本気で残念がっている両親を無視して、臨太郎は食器洗いを始めた。



# by toshi58asahi | 2026-02-02 18:07 | Comments(0)

第91回「その後の『新宿スイング』」

【森山高校吹奏楽部 第五章 丈二と絹】第二回 音楽教師なのにピアノが弾けないの?


「それじゃジャズ教室のくわしい中身は追々と臨太郎や先生と打ち合わせるということで。その前にバンドメンバーの顔と名前とパートを知りたいね」


「あの、これ、リスト作りました」と緊張気味にりんに渡したのは真理子だ。


「ありがとう。あなたは?」


「篠原真理子と言います。パートはテナーサックスです」


「了解。丈二、ちょっと来て」と窓際のテーブルにリストを広げて、丈二と真剣に見入った。


トランペット=四名


岸臨太郎(三年。部長)/下条佳世(二年)/湯村真奈美(二年)/向坂幸一(一年)


サックス=四名


篠原真理子(テナー。二年。副部長)/佐々木道徳(テナー。二年)/玉井希久江(一年、アルト)/百合岡信二(一年。アルト)


トロンボーン=四名


深見圭子(三年)/栗原秀太(二年)/桐谷裕子(一年)/春山徹(一年)


クラリネット=二名


仁藤和子(一年。フルートも)/関根裕子(一年)


コントラバス=秋山正人(二年)


ドラムス=根来仁(二年)


「篠原真理子さんは副部長なんだね。臨太郎の馬鹿が部長じゃ大変だろ」。りんは言ったが、実はその反対なんだと真理子を含めて部員全員が思った。


「ベースは秋山くん?」丈二が聞くと秋山が「はい」と答えた。


「さっきのフルートは?」仁藤和子と関根裕子が挙手すると「クラリネットでフルートもOKなのね。すごくいい」と言った。和子と裕子は真っ赤になった。


 りんが考え込んだ。それを見て臨太郎は「考えていることは分かってるよ。ピアノだろ? 僕もずっとそれを考えていた」と言った。


「臨太郎、ペンを貸して。何でもいいよ」


 圭子がボールペンを差し出した。


「ありがと。あなたはトロンボーンね、迫力のある」と言って受け取った。圭子も真っ赤になった。


 リストの紙に何か書いて、それを持って臨太郎に見せた。


「りんさん、グッドアイデアだ。これしかないよ」


かおりと真理子が近寄ってきてリストを見た。


「すごい。盲点でした」


かおりはひきつった声で、「できません」と言った。


「あなたは音楽教師なのにピアノが弾けないの? そんなことないでしょ。できるできないじゃなくて、やるのよ」と凄みのある声で言った。


 興奮している二人にひきかえ、かおりはテーブルに両手を突いて喘いでいた。


「先生、そんなにびっくりすることじゃないよ、ピアノを担当するのが自分だからって」


りんが言うと、雰囲気で内容を察していた部員全員の「異議なし」の声が音楽室中響き渡った。


◆◇


「誠治さんと絹さんが演劇部の練習場所に入っていった時の部員たちの表情を見せたかったよ。な、良太。カラスに豆鉄砲か?」


「鳩だよ、真吾…たく。それより、お前が初めて練習場所の教室に入った時に近かったな。恐怖で顔が引きつって。ね、荒井さん」


「はい。私たち、大変なことになる。どうしよう、誰か助けてって」。薫子が調子を合わせた。


「お前ら、そんなことばっかり言ってるな。そんなことを言ってると、俺は吹奏楽部に移るぞ、なんてな、臨太郎」


 それを聞いて臨太郎は考えこんだ。そして、「やっぱり駄目だ。諦めてくれ。部員が全員逃げ出しちゃうよ」と言ってペロリと舌を出した。


「この野郎!」と真吾は臨太郎に掴みかかるまねをした。


 森山高校に迫力のある年寄りたちが襲来した木曜日から二日経った七月四日、土曜日の午後、臨太郎、真吾、良太は横須賀中央駅近くの寅松マーケットにある喫茶店「ミント」に集合した。 


次週の期末試験の準備で部活動は特別の理由がない限り、試験が終わるまで休みだ。だから、演劇部の荒井薫子もバイトに来ている。


木曜日に起きた出来事をもう一度反芻して楽しもうと集まったのだ。


ミントに来るのが良太は少しだけ気が重かった。蓮子に自分の性格を見透かされたからだ。しかし、それも店に入ってすぐに「良太くん、この間はすまん」と蓮子に片手拝みで謝られたことで解消した。


 その蓮子が焦れている。


「その誠治さんと絹さんがどうしたのよ。話を続けなさいよ」


 良太が代わって説明することになった。


◆◇


 演劇部の高山部長に先導されて教室に入った真上誠治と臼田絹は指示された椅子に座った。


「はい、みなさん、こんにちは」。絹はおそらくはかなり高価であるだろう外国製らしきハンドバックから扇子を出し、盛大に仰ぎ始めた。教室中に何か高級そうないい香りが広がった。


「で、ここは何なのかしら。臨太郎に言われるがままに、あの彼女」と扇子で洋子を指して、「に連れてこられちゃったけど。せいさんは分かる? この状態」と誠治に聞いた。


「いや、俺も分からん。おそらくはりんと丈二にくっついてきてしまった俺たちを持て余したんだろう。だから、二人がジャズのコーチを行っている間、この人たちにお守りを頼んだ。そうだろう? ジャズファンの倉谷良太くん、たぶん格闘技ファンの木下真吾くん」


 すげえ、もう俺たちの名前と特徴を把握している。


「それから、さっき漏れ聞こえたが、あなたは演劇部の部長の高山洋子さんとおっしゃる。そうだね?」。穏やかに話すが、この長身痩躯の老人には有無を言わせない迫力がある。


 洋子は誠治の迫力に押されて答えることができない。良太は自分が説明するしかないなと覚悟を決めて話し始めた。


「誠治さんの推理、半分当たって半分外れています」


 誠治の口がほお、という形になった。


「確かに奥さんの真上りんさんとご主人の能見丈二さんが御用の間、時間を持て余されるのもお辛いでしょうから、暇つぶしにどうかとお連れしました。これが当たりの方ですが、外れの方は演劇部にお二人が役に立つと思ったからです」


 聞きようによっては不躾で失礼な言い方を良太はあえてした。


 海千山千の強者の男女二人は良太の次の言葉を静かに待っている。


 良太は緊張で喉がゴクリと鳴った。


 演劇部の部員に向き直り、「紹介が遅れましたが、こちらは吹奏楽部の部長の岸臨太郎のおじいさまで真上誠治さんとおっしゃいます奥様、つまり臨太郎くんのおばあさまは今、吹奏楽部が文化祭でジャズに初挑戦するのをコーチするために来られました。おばあさまは真上りんとおっしゃって、戦後すぐから僕たちが生まれる頃まで活躍されたジャズシンガーです」と言った。神妙な顔で演劇部員たちがお辞儀した。


「こちらは真上りんさんのジャズの師匠である能見丈二さんの奥様で絹さんとおっしゃいます」。同様に部員たちがお辞儀した。


 良太は二人に向き直った。


「今、演劇部では文化祭で行う芝居『北条政子』の稽古を行っています。永井路子さんの傑作小説を原作に高山部長が台本を書きました。僕らはお二人を見た時、政子と頼朝みたいだなと思いました。臨太郎くんに聞いたところでは、誠治さんは新宿で刑事をされていて、小太刀の達人。いわば武士です。一方、絹さんは辣腕の事業家で鎌倉に人気の料亭を造ったこともあります。男尊女卑の時代に言い方は悪いけれど、男どもに言うことを聞かせる強い女。まさしく頼朝と政子だと思いました。そこで、部員たちをお二方に会わせて、芝居を行っていく参考にできたらと思ったのです」


◆◇


 絹が横の誠治に顔を寄せて、聞こえよがしに「この学生、いやに弁が立つけど、本当に高校生なのかね。この子たちも高校生に見えるけど、集団で丸め込む詐欺グループだったりしてね」と言った。


「かもな。弁が立ち過ぎるのは信用できねえぜ」と部員の顔を一人一人見回した。そのたびに部員たちは顔を伏せた。


 教室の空気が凍った。


「と、このくらいでいいか、絹さん。分かったよ。倉谷さん。みんな。こんな老体二人、煮るなり焼くなりしやがれって、芝居臭いね、で、何が聞きたいんだ?」と笑った。


 ホッという音が聞こえるほど、教室全体を包んでいた緊張感が解けた。


 といっても突然現れた迫力ある老人たちに、すぐに質問できる高校生はなかなかいない。


「あの」と言って真吾が手を上げた。


「誠治さんと丈二さんの決着はまだ付いていないって臨太郎が言ってました。正直、どちらが強いと思いますか?」


「真吾!」と良太が咎めた。誠治はニヤリと笑った。


「こりゃまたストレートな質問だね。君はどう思う?」


「分かりません。想像できません」


 誠治が話し始めた。


「俺が丈二と初めて会ったのは新宿のダンスホール。昭和十年の話さ。店の中で喧嘩の最中。やくざのチンピラが男に殴りかかった。男は店専属のジャズシンガー。男は右手の指先で軽くチンピラのこめかみを叩いた。チンピラは気絶した。その男が丈二だ。ハワイからやってきた日系アメリカ人だ。次に丈二に会ったのは、絹さんが経営していた待合…料亭みたいもんだね…そこで騒動が起こっているという通報が俺が勤めていた警察署にあった。旧制中学、といっても分からんか。とにかく、お前さんたちと同じくらいの学生、もちろん男だが、不良どもが絹さんの料亭で大喧嘩していた。駆けつけた俺と同僚と制服警官が入って喧嘩を止めようとするが、興奮しきった馬鹿どもは手が付けられない。そんな時、俺がやられそうになったのを助けてくれたのが能見丈二だった。絹さん、見てたよな」


 それを受けて絹が口を開いた。


「当たり前でしょ、私の店がメチャクチャにされているんだから。せいさんは腰から十手を出して、不良どもの木刀とやり合っていた。卑怯にも後ろから木刀を打ち下ろそうとした学生がいたのよ。丈二は突然現れて学生の顎を軽く殴った。学生は腰が抜けたようにそこに倒れた。すごいと思ったね」


 アクション映画やドラマが好きな男子ならいざ知らず、女子には刺激が強すぎる話に演劇部員たちは怯えた表情を隠せない。ところが、「それをきっかけに二人は付き合い始めたんだよな」「まあ、そうだね。私の方が惚れたんだ」という話になって表情を緩めた。


「それから、事件捜査や逮捕を丈二に助けてもらったこともたびたびあった」


「二人で対決したこともあったとか聞いてます」。真吾は腕っぷしの話を蒸し返した。部員の中には露骨に不快な表情を真吾に向ける者も少なくない。


 良太が口を挟んだ。


「おい、真吾。そのくらいでいいだろ。聞きたいのはお前だけだ」と言うと、誠治は「どっちが強いか? どっちだっていいだろ」。真吾を見据えて低い声で言った。


「はい、すみません」。迫力に気圧されて真吾の追及は終わった。


◆◇


「それじゃ、僕から一つだけ、いいですか?」


「いいよ」


「戦争が近付き敵性外国人の丈二さんは帰国しなければならなかった。丈二さんは誠治さんが復員して絹さんやりんさんたちが暮らしている大船の家に帰った。誠治さんは刑事に戻ることはしないで、仕事を探しに横須賀に行った。アメリカの進駐軍基地に仕事があると聞いたから。基地の面接室に入ると白人の面接官と一緒に東洋人が入ってきた」


「丈二さんでしょ!」。手塚が叫んだ。


 無言でうなずいた良太は、「誠治さんと丈二さんは再会した。そして、丈二さんが運転する軍用ジープに乗って二人は大船に向かった。家に近付くと、家の前で小さな女の子が遊んでいた。誠治さんは女の子に絹さんを呼んでくるように言った。絹さんはジープから降りた丈二さんを見て崩れ落ちた。そして…」。


 話の途中から、この結末を予想していた部員たちは鼻を啜り始めていた。


 絹は窓の外を眺めて右手で目尻に触れた。


「こないだ臨太郎に話したが、倉谷さん、それをうまくまとめるねえ、舌を巻くよ」。誠治は言った。


「その小さな女の子が七歳の一恵ちゃん。誠二さんとりんさんの娘さん、臨太郎のお母さんです」。良太は部員に向けて説明した。


「丈二さんは二つのビジネスプランを誠治さんとりんさんに持ちかけた。一つは誠治さんと米軍関係の調査事務所を立ち上げること、もう一つはりんさんの歌手デビュー…」


「分かった分かった。うちの歴史を洗いざらいさらすつもりか。そのへんでいいだろ?」


「すみません。ここの部分、役者を目指している者にぜひ聞かせたかったんです。お叱りは覚悟しています」


 絹が口を開いた。


「ここ、煙草、駄目よねえ。ちょっと吸いたくなっちゃった。せいさんもそうじゃない?」


「うん、さっきから我慢してるんだ」


 それにすかさず真吾が食いついた。「いい場所があります。教師は来ません」。


「木下くん」。さすがに洋子が声を上げた。


「高山部長さん、そろそろ俺たちを解放してくれ、ニコチンが切れかかってもいる」


「みなさん、参考になったかしら。なんないわよねえ」


 二人は椅子から立ち上がって出口に向かった。


「あ、あの」。荒井薫子が呼び止めた。


「ありがとうございました。すごく参考になりました。私が北条政子です」


絹は薫子に向かって妖艶な笑みを見せて「そうなの。頑張ってね」と言ってドアを出た。


薫子は絹の姿を目に焼き付けるように見送った。


◆◇

 田沼蓮子は忙しかった。料亭での学生と刑事の格闘には手に汗を握り、丈二と絹の再会には盛大に泣き、薫子に「良かったね」と言う。


 鼻をかんでから、「そういえば、さっき、教師が来ないいい場所って言ってたよね、真吾。話の流れからすると、生徒が煙草を吸えるいい場所と聞こえる。そんなことあるんだ。薫子、知ってた?」と聞いた。


「はい、噂には聞いたことがあります。校舎の裏の畑の奥の小屋だってことだけは。普通の高校生は近付きません」と答えた。


「おい、真吾。俺たちは普通じゃないってよ」


「お前、自分が普通だと思ってたのかよ」


 カッカッカと笑う二人に蓮子は「続き」と不機嫌に命じた。



# by toshi58asahi | 2026-01-30 06:17 | Comments(0)

第90回「その後の『新宿スイング』」

【森山高校吹奏楽部 第五章 丈二と絹】第一回 不良老人たちがやってきた


 七月三日、木曜日の午後、臨太郎は校門の内側でりんと丈二の到着を待っていた。たぶん、国鉄逗子駅からタクシーだろうと踏んでいた。横には顧問の水沼かおり、木下真吾、倉谷良太がいた。吹奏楽部の活動を邪魔しないで、真吾と良太がりんと丈二に会うには、活動前に会わせるしかない。


 そして、なぜか高山洋子と手塚敏江もいた。


 彼女らが姿を現わした時、臨太郎は「なぜ、ここにいるの?」と当然の質問をした。


「いいじゃない。たまたまよ」と洋子は開き直る。真吾と良太を見ると苦笑している。


手塚にも聞いてみた。「だって、コーチですから」と消え入りそうな声で答える。良太を見ると「俺たちの、ってことだと思う」と答えた。


 仕方ない。


 学校までの坂道を上るエンジン音が聞こえ始めた。校門に姿を現わしたのは綺麗な深緑の外車だった。


「うへえ、ジャガーだぜ!」。車にくわしい真吾が叫んだ。


 運転しているのは、なんと祖父の誠治だった。誠治は臨太郎を見つけると、そばに停車しウインドウを下げた。


 サングラスを頭に乗せ、左腕を窓枠に乗せ「よお、臨太郎。どこに停めればいい?」と聞いた。


 臨太郎は無言で体育館の横の駐車スペースを指さした。


 すると、ドアから乗客たちが降り始めた。助手席からりん、助手席の後ろから丈二、運転席の後ろから臼田絹が降りた。


 受け入れ側は臨太郎を除いて呆然となった。


 三人が降りたことを確認した誠治は抜群のハンドル回しで車を出し駐車スペースに向かった。


「ハーイ! 臨太郎。元気か?」。丈二が臨太郎をハグした。後ろにいた絹が「臨太郎。最後に会ったのいつだっけ? ああ、今年の正月ね」と微笑んだ。丈二は紺色のダブルのブレザーを白のポロシャツに羽織り、下はジーンズだ、絹は和服姿だが、素人でも上質なものを分かる。


 りんは立ちすくんでいる者たちに嫣然と微笑みかけて、「みなさん。本日はお邪魔いたします」と言った。


 相変わらずのベリーショート。小麦色の肌。いつもの黒いブラウスと黒いパンタロン。小柄な体なのに圧倒的な存在感。オーラが立ちのぼっていた。


 誠治が戻ってきた。黒のスーツに白いワイシャツでノーネクタイだ。


臨太郎が言った。


「紹介します。僕の祖父母の真上誠治とりん。こちらは祖父と調査会社を経営している能見丈二さんと奥さんの臼田絹さん。絹さんは新宿で不動産の会社を経営しています」


 今度は学校側だ。


「吹奏楽部の顧問で音楽の水沼かおり先生。それから同じ三年生で友達の木下真吾と倉谷良太だ。二人は演劇部だけどみんなに会いたいって待ってた。真吾は空手とか小太刀に興味があって、良太はジャズファンだ」


 三人はカチコチになっていた。


「お、お会いできて光栄です。今、岸くん、いえ、岸部長が申した通り、吹奏楽部の顧問をしております水沼かおりと申します。本日な遠方のところおいでいただきまして、誠にありがとうございます」。挨拶もカチコチだ。


 友達の二人も名乗った。


 丈二がつかつかと真吾に近付いた。


「きみ、だいぶ場数踏んでるね。なあ、せいさん」と誠治を振り返った。誠治はうなずいた


「けど、強いからって慢心はいかん。なぜそういう君が演劇部員か知らんが、演劇はいいかもな」と言った。


 りんは良太に近付いて、「臨太郎に聞いたところじゃ、今の高校生にジャズは人気がないんだって? 君たちの肩にかかっているのよ、頑張って」と言うと、良太はとろけそうになっていた。


 とても六十歳近くには見えない。


それから洋子と手塚の近くに行って、「で、このお二人は? 臨太郎、紹介しないの?」りんが臨太郎に聞いた。


「い、いえ、自己紹介させていただきます。演劇部の部長をしております高山洋子です。岸部長と同じ三年生です。こっちは部員の手塚敏江です。うちの部員が会いたいと言う方がどんな方か興味があって…それだけです」


 りんが手塚を見ると、真吾と良太が同時に「あっ!」と叫んだ。(りんさまの役をやりたいです)と言い出すのでないかと思ったのだ。気に入った人物がいると、手塚はすぐにその役をやりたがる悪い癖がある。


 真吾と良太を見て首を傾げたりんに手塚は「か、かっこいいですね、りんさまは」とだけ言った。


「そ、ありがとね」と指先で手塚の顎に触った。手塚は棒立ちになった。


◆◇


 誠治と絹が来るのは予想外だった。臨太郎はちょっと考え、良太と洋子を手招きした。


「あのさ、今演劇部で練習しているの、頼朝と政子の話だよね。誠治さんと絹さん、なんどなくそうじゃないかな?」


 洋子と良太があっ!という表情に変わった。


「高山さん、誠治さんは元刑事で小太刀の達人、絹さんは実業家で鎌倉で人気の料亭を経営したことがある」


 洋子は身を乗り出した。


「何かお二人の風格というか雰囲気が気になっていたんだけど、そういうことなんだ。それで?」


「二人を演劇部に任せたい」


「そういうことか。任せなさい。倉谷くんもいいよね」


 察しがいい。つまり、吹奏楽部でりんと丈二が顔合わせしている間、任せたい。演劇部にもメリットがあるよということだ。良太はうなずいた。


「せいさんと絹さん、演劇部の人たちと会ってみたらどうでしょう。演劇部は今、永井路子原作の『北条政子』の稽古中だって」と声を掛けた。


 二人は鷹揚にうなずいた。


◆◇


 臨太郎とかおりはりんと丈二を先導して音楽室に向かった。高校に全く似つかわしくない二人に廊下ですれ違う人間は、生徒、教師の別なく、二人に注目する。通り過ぎた後、必ず振り返る。


「こちらです」。音楽室に到着しかおりは声を上げた。それまでの道中、声を掛けることができなかったのだ。あの真上りんと一緒に歩いているんだという緊張でガッチガッチになっていた。


 ドアを開け二人を中に導いた。


「こんにちは」。部員たちがめいめいに挨拶した。


「こんにちは、みなさん。私は真上りんと言います。こちらが…」とりんが言うと、「能見丈二です」と丈二が言葉を継いだ。


「岸臨太郎から私たちが呼ばれた目的は聞いてます。みなさん、スウィングジャズがうまくなりたいんですね。それを私たちがサポートする。シンプルです。まずみなさんの音を聴かせてください」と言って、丈二とともに壁際に移動して椅子に座った。


 臨太郎はかおり、真理子と相談した。その間、部員たちは楽器を出し定位置に椅子を置いた。


 相談が終わった臨太郎は「アクエリアス」とだけ言って、ケースからトランペットを出し準備を始めた。真理子も同様だ。楽譜はない。


 臨太郎のカウントで始まった。フィフス・ディメンションの「輝く星座(アクエリアス)」だ。クラリネットを脇に置いた二人の女生徒が吹くフルートでスタートした。ボーカルとコーラスは全て管楽器にアレンジしている。


 りんは目を見張っていた。丈二も同様だ。時々何か囁き合っている。


 演奏が終わった。


 一瞬間を置いて、りんと丈二が拍手した。


「オーケー。何も言うことはない。すごく楽しい演奏ね。洗練されたソウル風のポップスをみんな楽しんでやっている。先生、このアレンジはどなたが?」


かおりが答えた。


「はい。うちは以前からポップスがメインで、顔も知らない先輩がアレンジしたそうです。楽譜に年月日と名前が残っているだけで。アクエリアスはオーディエンスにすごく人気の高い曲です」


丈二が口を開いた。


「聴かせてもらって実力は分かった。ジャズへのハードルはそんなに高くないこともね」


 それを聞いて部員たちは歓声を上げた。


◆◇


「それでは、今度は私たちがお聴かせするわね。ウッドベース、いえ、コントラバスのパートの人、貸してもらえないかしら。丈二が弾くから」


 秋山仁がウッドベースを丈二の横まで運んだ。


「僕はギター専門なんで、ベースは割り引いて聴いてよ」と言ってみんなを和ませながら、弦に指を馴染ませた。


 りんは「臨太郎。クリフォード・ブラウンできる? ヘレン・メリルのあのアルバムの…」と聞いた。


「どれよ」


「ユードゥビーソーナイストゥーカムホームトゥー」


「何とかなるかな」


「ついでにサックスのパートも」


「注文が多いな」


「多いのよ」


 などと言いながら、三人は音楽室の中央に出てきた。


 臨太郎と丈二が目で合図し一緒にカウントを取って演奏が始まった。ベースのリズムにトランペットの音が重なる。短いイントロですぐにりんの歌が滑り込んだ。本来は歌の次にすぐ始まるピアノのパートをりんはスキャットした。


 誰かが「ウへッ」と言った。圧倒的な“歌”だ。


 唐突にスキャットが終わると、臨太郎のトランペットが始まった。


 水沼と部員たちの間には感動の代わりに驚きが広がった。岸部長、何でこんな演奏ができるんだ、できないって言ってたじゃんか。


 トランペットのソロからベースのソロに変わった。丈二のベースはリズムを刻むだけでなく、メロディアスだ。ベースが歌っている。その間、りんが臨太郎に「次はお前が歌えよ」と指示した。


 臨太郎は片方の眉毛を上げたが、うなずいた。


 トランペットの短い演奏に続いてすぐに歌い出した。


 もちろん、りんには到底及ばないが、「すげえ」という男子部員の声がした。


 部員と顧問がりんと丈二と臨太郎の魔法に掛かってしまった瞬間だ。


 歌と演奏が終わると、「臨太郎は下手だね。聴けたもんじゃない」と言った。


 音楽室は凍り付いた。


「当たり前だ。プロじゃないからね。それに歌とトランペット、両方できるわけないじゃん。チェット・ベイカーじゃないんだから」


「プロじゃないって言ったね。アマチュアだからこの程度でいいと思ったら初めから負けてるよ、自分に。俺は私はプロだって思ってこそいい演奏ができるんだよ。ね、丈二、そうだよね」


「俺に話を振るなよ。内輪で揉めてろよ」


「うるさいばあさんだな。頼まなきゃよかった」と臨太郎が言った。


 その瞬間、水沼と部員全員の視線がりんに集まった。


 りんは満足そうに微笑んでいた。喧嘩しているわけじゃないのか?


「ほらほら、お前さんたちがじゃれてるから、みんなが心配してるぜ」。丈二が苦笑いしてから秋山に目で合図した。


 秋山は丈二からウッドベースを返してもらったが、その場で考え込んでしまった。


「何?」。丈二が聞いた。


「何であんな音が出るのかと不思議で」


 丈二はガハハと笑い、秋山の肩を叩いた。


◆◇


「りんさん、それで電話では一カ月でなんとかしたいと言ったんだけど、高校生には期末試験というものがあることを忘れていたんだ。これは高校生には義務になっているハードルなんだ。だから、本格的に練習できるのは夏休みに入ってからになっちゃう。先生やみんなと話し合ってそれの方がいいってことになった。ごめん」


 終業式は七月十九日の土曜日。その後から本格的な練習に入れる計算だ。


「謝ることではない。私、丈二と考えていたのは、定休日、うちは日曜なんだけど、うちの店で練習をやったらどうかということだったんだ。私は悲しいことに来年六十歳だし、丈二は今年七十になっちまったし」


 見えない、という声が上がった。


「ありがとう。でも、確実に年を取っているのさ。うちの亭主だって丈二と同じ年だし、絹さん、そういえばせいさんと絹さんはどこに行っちまったのかね。一緒に来たんだけど。丈二の奥さんは六十五歳。とにかく、今日のドライブは体に応えた。その代わり、うちの店に来てくれたら、何でもできる。どう? みんな。夏休み…っていつまでよ、臨太郎」


 八月三十一日です、今年は日曜日ですという声が上がった。


「そう。カレンダーある? うんと、七月二十日、二十七日、八月三日、十日、十七日はお盆休みだから駄目、二十四日。三十一日は駄目でしょ? 高校生には宿題なんてものがあるだろうからね。この五日間、何ていうの? ジャズ講座? ジャズ教室? 何でもいいや。とにかくそれをやろうと思うけど、どう?」


 ワー!という歓声が上がった。生徒だけでなく水沼も喜んでいる。


「りんさん、いいの? りんさんと丈二さんの大事な休日取っちゃうよ」。臨太郎が言うとかおりが「それから、何と言いますか、お礼…」。声が小さくなる。「はできないというか…」と続けた。


 りんはそれを豪快に笑い飛ばして、「臨太郎プライスでいいよ。つまりタダ、ロハ、無料、フリー、つまりノーギャラ。孫から金が取れるもんか。それに、私らプロじゃないから。私もあんたたちが生まれた頃に引退した元歌手だし、丈二だって腕はプロだけど世間的にはアマチュアだ。そんなこと気にしなさんな。それより、みんなに来てもらうのはいいけど、交通費とか大丈夫かね。ジャズ教室の時の飲み物ぐらいは出せるけど」と言った。


 すかさず「大丈夫です!」の大合唱が起こった。



# by toshi58asahi | 2026-01-26 05:34 | Comments(0)

第89回「その後の『新宿スイング』」

【森山高校吹奏楽部 第四章 かおり】第三回 できない音楽をできるようにしたいんです


 七月二日、水曜日の放課後、吹奏楽部員が集まりだす前に、顧問の水沼かおりが音楽室に来ていた。部員の多くが「おばあさまはいかがでしたか?」などと気遣った言葉を掛けた。そのたびにかおりは「ありがとう」とか「大丈夫だったわ。心配掛けてごめんなさい」などと答えていた。


 臨太郎がやってきた。かおりを見ると他の部員と同様、「おばあさまは大丈夫ですか?」と聞いた。


 かおりはそれに対して笑顔で答え、「それより、昨日はごめんなさいね。それで昨日の続きをやりたいと思って来たのよ」と言った。


「はい? 続きって?」


「だから、吹奏楽部がジャズをやるって話」


「ですから、できるかできないか一カ月後に試してくださいと」


「それは岸くんが一方的に言い出した話よね。私は祖母のことが気になって…」


 臨太郎はかおりの顔をじっと見つめた。


「だったら、もう一度言います。一カ月猶予期間をください。その間に僕たちは先生が満足できるような演奏ができるように猛練習します。もし満足できなかったら、今までの通りのレパートリーで行きます。そして、もう一つ、僕は責任を取って退部します。それでいかがですか?」


 かおりは臨太郎が言っていることが一瞬分からなかった。


「いいえ、責任を取って退部なんて話、昨日はなかったわ」


「はい、今追加しました」


 かおりは理解できないというふうに頭を振ってから、「ねえ、岸くん。何を意地になってるの? 昨日の私の態度に問題があるの?」と言った。


「いえ、先生のせいではありません。というより、感謝しています。中途半端にジャズに手を出そうと思っていた僕たちに発破を掛けてくれたと思っています。先生のおかげで本気になれました。ありがとうございます」。臨太郎はかおりに頭を下げた。


 成り行きを心配し部員たちは二人を見つめている。


「そう、私にできること、手伝えることはある?」


 臨太郎は考えた。


「あります。できるだけ関わっていただけますか? 仕事に影響がない範囲でいいです。僕たちがどうやってジャズと向き合っていったか見ていてください。僕らは普通の部活動の範囲を超えます。それを理解して、無理でも理解して見ていてください。それで学校に問題視されそうな場合、注意喚起してください」


 かおりは震える声で「何をする気なの?」と聞いた。


「ジャズの元プロをコーチとして招きます。いえ、招きました」


「ジャズの元プロ? えっ? 招いたって、その話進んでるの?」


「進めています」。冷徹な表情で臨太郎はかおりに告げた。


「それを私に認めろってこと? 岸くん、君はどうなっちゃったのよ」。かおりの口調がヒステリックになり始めた。


 事の成り行きを見守っていた真理子と圭子がここで二人の間に入った。


「先生。どうなっちゃったのは岸部長だけじゃなくて、私たち全員です」と真理子。


「今まではできる音楽を演奏してきましたが、できない音楽をできるようにしたいんです。お願いします。協力してください」と圭子。


 かおりはしばらく荒い息を整えていたが、やっと冷静さを取り戻した。


「分かった。吹奏楽部の顧問という私のプライドを修復するためにも、この件には関わらざるを得ないようね。で、そのジャズの元プロってどなたなの? 最初に言っておくけど、コーチの謝礼は払えないわよ」


「はい、もちろん。でも良かった。やっといつもの先生に戻った」と臨太郎は笑顔を見せた。


◆◇


「真上りんですって? あなたの実のおばあさま? そのおばあさまがコーチをしてくださるの? 何て素敵! 私、だっいファンなのよ。いいえ、父親と母親がファンだったの。りんさまは私が小さい時に引退されてしまったから、その素晴らしさはレコードと両親の思い出話でしか知らないけれど、それで私もぞっこんになった。岸くん、何で先にそれを言わないのよ」


 そんなこと知らないよ、と臨太郎は思ったが、逆転ホームラン状態で味方になりそうな水沼の上機嫌に水を差すこともなかった。


「もう一人は真上りんがジャズを始めるきっかけとなった師匠、能見丈二さんです。日系アメリカ人で戦前は日本でジャズ歌手、戦後は米軍の通訳として来日して、真上りんの再デビューを後押ししました。今は会社経営の傍ら、真上りんが経営する新宿のジャズクラブで、時折、ジャズギターを演奏しています」


「何て素晴らしいの? 岸くんは何て素晴らしい環境に育ったの? それでお二人は明日何時頃に来られるの? お迎えする用意をしなきゃ」。そわそわし始めた。


 風向きの激変に吹奏楽部の部員はみな唖然としていた。


「たぶん四時頃だと思います。お迎えする用意ってどういうことか分かりませんが、祖母はそういう特別なことは好きじゃないと思います。単にうちのバンドがどういう個性を持っているか確認しに来るわけで。このことは先生の中だけで学校には内緒にしておいてください。吹奏楽部関係者だけの秘密ということで…」


「そ、そうよね。おおげさなことはお嫌いでしょうね。だってジャズの方なんだから」何で“ジャズの方”がおおげさなこと嫌いか分からないが、舞い上がったかおりは臨太郎の言葉を全て受け入れるようになってしまった。


「それで、今日は何をするの? 手伝うわ」


「昨日、グレン・ミラーの楽譜を買ってきました。それをみんなで写譜したいと思います。一部なのでそれをまず僕が写し、二部になったものを二人が写すと四部、四人が写すと八部、十六部。原本をもう一度写すと合計十七部。先生と部員全員の分が出来上がります。今日はそれをやりたいと思います」


「了解。じゃすぐに始めましょ。白紙の五線紙はあるわよね。パートごとじゃなくて全部写せばいい? 分かった。『アメリカン・パトロール』、吹奏楽でも有名なナンバーね」


 さっさと写譜を始めた。


「先生が手伝ってくれることになったから百人力です」


 かおりをおだてて丸め込む臨太郎のテクニックに、部員たちは驚いていた。あの退部宣言からうちの部長、急激に変わっていっている。以前の温厚だが気弱な臨太郎はもうここにはいない、と。


「真理子、ちょっと席外すね」


「どこに?」


「演劇部」


「何で?」と聞く前に臨太郎は出ていった。


◆◇


 演劇部が練習に使っている教室へ向かう道すがら、大きな懸案について臨太郎は考え続けていた。


 うちの部はビッグバンドジャズを演奏する楽器編成がほぼ揃っている。しかし、一つ足りないものがある。これがないとウッドベースとドラムスだけではリズムセクションは弱い。


 ピアノだ。


 どうすべきか悩んでいるうちに演劇部の練習場所に着いた。


 ノックをする前に様子を伺いたくて、ドアを薄めに開けると、向こうからも誰かか覗いていた。そして、ドアが大きく開けられた。開けたのは部長の高山洋子だった。


「あら、吹奏楽部の岸部長じゃないの。偶然に発見したからいいものの、覗きはいけないわ。で、何か御用?」


 何だ? この切り口上。臨太郎はムッとした。


「部活中申し訳ないが、木下と倉谷を呼んでくれ」。普段の臨太郎らしからぬ乱暴な頼み方をした。


 中から真吾と良太がニコニコしながら手を振っている。


「今、岸部長が言った通り、部活中。面会は厳禁。分かった?」と言ってドアを閉めようとする。


 閉めさせないように手で押さえて、「少しだけ頼む。急ぎなんだ。頼むよ」と懇願した。


 しぶしぶ力を緩め、臨太郎がドアを開けるのを認めた。


 真吾と良太が臨太郎の近くに寄って来るのを、洋子は体で阻み、「その前にうちの手塚を吹奏楽部で吊るし上げたことを謝ってほしい」と言った。


「おい、吊るし上げって、どういうことだ」。良太の言葉が尖った。


「高山部長、何を因縁付けてんだ?」。真吾の凄みのある声が教室全体を凍らせた。


 臨太郎は「そうですね。理由はともあれ、演劇部の部員を怖がらせるようなことをしたことは謝ります。手塚さんもさっきはすみません」と頭を下げた。


「分かってくれたらいいの。うちの部員の木下真吾の窮地を救ってくれた恩人をこれ以上責めるわけにいかない…って、冗談よ。ちょっとからかっただけ。ごめんなさい」


 いつもの臨太郎なら、ハハハ、そうだったのかと言ってくれる性格であることを、同じ文化系の部長仲間として知っていたが、今日は見誤っていた。


 臨太郎は無表情で洋子を見つめ言った。


「高山部長、僕はそういう冗談は好きじゃない」


笑いかけていた洋子の顔が凍った。


「言いたくないが、音楽室の前で騒いでいたのはあなたのところの部員だ。それをなだめた。事情を聞くのは当然だろ? 分かったよ。真吾と良太、部活が終わったら音楽室に来てくれ。じゃあな」


「ちょっと待ってください」。洋子がオロオロした声で言った。


 臨太郎は待たずにドアを出ようとした。


「そのくらいでいいだろ、臨太郎」。良太の声がした。臨太郎は足を止めた。


「そうですね」。臨太郎のいつもの笑顔が戻っていた。


「どういうこと?」。洋子が聞いた。


「見事な芝居を見せてもらったな」。良太が言った。


「洋子の芝居に応えたんだよ、臨太郎は」


「まあね。やられっ放しじゃ面白くないだろ? じゃあとで」と今度は本当に教室を出ていった。


◆◇


「ただいま」。音楽室に戻ると、部員たちは熱心に写譜を行っていた。顧問のかおりはレコードの音楽を熱心に聴いていた。


 臨太郎の声を聞いて振り返ったかおりは、「岸くん、私もグレン・ミラーは聞いたことがあるけど、こんなに良かったっけ? スロー・バラードの『ムーンライト・セレナーデ』もいいね。で、どこかにお出かけだったの」と言ったところで、音楽室のドアがノックされた。


「はい」。真理子が返事をすると、真吾が顔を出した。


 ヒッ! という悲鳴がそこかしこから上がった。続いて良太が顔を出した。


「はい?」。真理子が再び同じ反応を示した。


 森山高校随一の不良、木下真吾のことはもちろん知っているかおりだが、実際に至近で見るのは初めてで、猛獣を眺めるような恐怖を感じていた。それにしても、穏やかな岸臨太郎と猛獣の取り合わせがどうしても理解できない。


「真吾、良太。来たな?」と言ってしばらく黙った。


「焦らすなよ」


 フフフ、と臨太郎はもったいぶった。


「明日、りんさんと丈二さんがここにコーチとして来ることになったんだよ」


 ヒャアと真吾と良太が叫んだ。


「丈二さんは琉球空手を教えに来るんだな?」


「真吾、お前、やっぱり馬鹿だな。吹奏楽部に何で空手を教えに来るんだよ。ジャズだよジャズ」。良太が真吾を小突くと、臨太郎がうれしそうに笑った。


「岸部長、あの…」。かおりが分け入った。


「この二人は?」


 あ、と言って臨太郎はかおりを見た。


「すいません。木下真吾と倉谷良太、どっちも三年生です」


 真吾を知らない森山高校関係者は皆無だろうし、この春まで新聞委員長だった倉谷良太も知っている。


「二人とも知っているわよ。なぜここにいるかって聞きたいのよ、私は」


「そういうことですか。二人ともうちの祖母と丈二さんに会いたいと言っていたので、演劇部に行って知らせようと思ったら、高山部長に咎められて、そういうことは部活動の後にしてくれと言われたもんですから。でも、待ちきれずにやってきてしまったというわけで…」


 そこに真吾が割り込んだ。


「そうそう。高山はお前にやりこまれて悔しそうな顔をしていたけど、最後には『岸くん、惜しいわね、吹奏楽部にしておくには。あの演技力なら頼朝にぴったり。今から引っこ抜こうかしら』って言ってた。な。良太」


「ああ、そうなりゃ、俺たちはお払い箱。もとの帰宅組に戻れる。臨太郎、そうしろよ」と二人でガハガハ笑う。


 教師の自分がまるでいないような態度に、かおりの我慢の限度が吹き飛んだ。


「あんたたち! 今すぐここから出ていきなさい。部外者は一刻も早くゲラウト!」。最後はなぜか英語になったが、ドアを指さして真吾と良太を殺意のこもった眼つきで睨んでいる。


「す、すみません。ふざけすぎました」。良太が謝った。真吾も頭を下げている。


◆◇


「僕もこの馬鹿どもの態度を放置していました。すみません」。臨太郎も謝った。


 振り上げた拳固の落としどころが分からないかおりは、ドアを指した指をプルプル震わせていたが、次第に冷静になっていった。が、怒りは収まらない。


 手を下ろしながら、「岸部長。演劇部のヘッドハント、受けてみたらどう」と言った。


 どうにもこうにも収拾が付かないので、年の功で圭子が介入した。


「みなさん、冷静になりましょう。なぜ、木下くんと倉谷くんがここまで興奮するのかというと…」かおりに説明し始めた。


 そもそもは横須賀中央駅近くで袋叩きに遭っていた真吾を臨太郎が救ったことがきっかけで、高校生ではほとんどいないジャズファンに会いたいという良太が真吾に頼んで臨太郎と会った。


「部長にはそこまでしか聞いてません。岸部長、それがなぜ真上りんさんたちが来校されるのと、この二人が盛り上がるのとが関係しているんですか? 私も知りたいわ」


「深見さん、ありがとう。僕のうちで三人で話しているうちに、ジャズファンの良太は真上りんに会いたがり、格闘技ファンの真吾は琉球空手の達人の能見丈二に会いたがった。機会があれば会わせると約束していたから、さっき知らせたに行ったら…」


「演劇部の女傑に『ぜひ頼朝役に』って見込まれたわけね。でも、意地悪で言うわけじゃないけど、これは吹奏楽部に関係することだから、部外者の君たちが関わることじゃないよね」と真吾と良太を見つめて言った。


良太は「先生が言う通りですね。諦めます。真吾、帰るぞ」と言った。真吾はそっぽを向いている。


臨太郎は「先生。この二人は純粋にジャズと格闘技のプロに会いたいだけです。邪魔はさせませんから会わせてやってください。お願いします」と言って頭を下げた。二人の馬鹿どもも下げた。


それを潮に二人は帰った。「ちょっと話してくる」と言って臨太郎も付いていった。


◆◇


 冷静になってからかおりは思い出した。臨太郎が真吾と知り合ったのが、真吾が袋叩きにあっているのを助けたということ。なにそれ、意味が分かんない、場面が想像できない。


「あのね。さっきの袋叩きの部分だけど…」


「ああ、それ、やっぱり気になりますよね」。お調子者のミッチーが解説を始めた。


 トランペットで不良どもを追い払ったこと。


「え? すごーい。吹奏楽が喧嘩の役に立つんだ」


 顔中血だらけの真吾のバイクの後ろに、臨太郎が乗ったこと。


「う、うーん」。止めろと言われながらバイク通学を止めない真吾のバイクの話を教師としてこのまま聞いておいていいものか。それに自分の学校の生徒が殴られて出血していることは、学校に知られれば問題になるんじゃないか。


 バイクで真吾の知り合いの喫茶店に行って、そこのママさんに手当てしてもらったところ、「木下さんの顔が血だらけだったのは、相手の鼻に頭突きをして、その出血だったそうで、つまり返り血だったそうです」。


 かおりは気が遠くなりかけて、体が斜めになった。倒れる寸前でミッチーが体を支えた。


「すみません。刺激強すぎました?」。ミッチーの腕の中で気が付いた。


「ご、ごめんなさい。ちょっと睡眠不足なもんだから」とごまかした。


「でも、こういう話を聞いて教師として無視していいものかどうか…」


 それ以上言わせないで真理子が「先生。聞かなかったことにしてください。これが原因で岸部長が何かの罰を受けるとか、吹奏楽部の活動に影響があるとかはちょっと」と懇願した。


 真理子を見つめ、部員全員の顔を見回したかおりは、「仕方ないね。学校内のことじゃないからっていうのは言い訳に過ぎないけど、今回は目をつぶる。でも、本来は見過ごしにできないこと。これは教師の責任なの。頭に刻み付けておいてね」と言った。


 戻ってきた臨太郎にも同じことを言った。



# by toshi58asahi | 2026-01-23 06:02 | Comments(0)